Vol.322 「人権が確立された民主主義」の中に部落解放への展望を見出す意味

「寄らば大樹の陰」(よらばたいじゅのかげ)」とは、どうせ身を寄せる(頼る)なら、小さく弱いものよりも、大きくて勢力のあるものに頼ったほうが安全で安心できるという意味のことわざだとAIが教えてくれた。ある意味「長いものには巻かれろ」とも同主旨の言葉であろう。強い勢力やリーダーに対して、刃向かうよりは、そこに頼った方が無難である。無理をするなと言う忠告やも知れぬ。

部落解放同盟中央本部の綱領の前文で、「ふるさとを隠すことなく、自分の人生を自分で切り拓き、自己実現していける社会、人びとが互いの人権を認め合い、共生して行く社会、われわれは部落解放の展望をこうした自主・共生の真に人権が確立された民主社会の中に見いだす。」と掲げている。同盟組織の憲法とも言える綱領で、「部落解放の展望を」「民主社会の中に見いだす」と明確に現社会体制において部落解放を展望するという目標を設定したことになる。

つまり、社会主義体制や共産主義体制においてこそ、“部落解放の完全解放”をめざすという運動路線ではなく、日本の社会体制が民主主義社会であるということを前提として、運動を進めていこうという方向を指し示したことを意味している。

実は最近この方向がきわめて手間のかかることで、申し訳ないが、“邪魔くさい”方向ではないかと思い始めている。

コロナというパンデミックへの対応に対して、その範囲を押さえ込むため外出制限、非常事態宣言などが国によって呼びかけられ、その徹底が問われたことは言うまでもない。しかし、日本のような民主国家は、宣言や制限が、義務ではなく、努力規定として呼びかけられ、政府としては「外出を控えてください」「街に出ないでください」と“努力義務”として訴えかける程度に留まっている。

かたや独裁国家的な権威主義の国では、街に出ることそのものが、犯罪行為と見なされ、処罰の対象として制限がかけられる。街には人っ子ひとりいないという映像が映し出されたことは記憶に新しいとことだと思う。

つまり、権威主義国家による政府決定は、義務であり、守らなければ処罰されるという法の支配がきわめて厳しく制限されることを意味している。すなわち、憲法よりも時の政府決定の方が、重んじられる可能性があり、戦争や侵略、人道に対する犯罪などへと一方的に悪質化していくことが危惧されることは当然である。しかし、意思決定には短時間で決まるという最大のメリットがあり、しかも決定は義務から責務に、そして強制力を持った必須の条件とされる。

すなわち、わたしたちの目標である“部落差別からの完全解放”達成のためには、多くのひとたちの民主的な合意形成という手間暇のかかる丁寧な努力よりも、いくらか攻撃的な強いリーダーによる差別禁止の強制力を持った法律の制定や罰則規定のともなう実効性ある強権政治の方が、威力があり、早期目的を達成するには好都合である社会体制ではないかと疑ってしまうことが、どうも“邪魔くさい”という原因のようである。

「民主社会の中に部落問題の解決を見いだす」との方向は、共産主義や社会主義という国家体制ではめざさないという宣言であり、同時にその展望を成熟した民主主義社会において部落解放・人権確立社会をめざすという方向を決意したことを意味している。

成熟した民主主義の発展とは、あくまで組織団体の合議制で決定していくという方向であり、議論して決めていくという意思決定には、膨大な時間を擁し、さりとて少数派の意見を切り捨てるのではなく、尊重はするが、まとまったことには全員でその成功に向けやり抜こうとする組織風土を醸成させることが強く求められていることは言うまでもない。

水平社宣言にある「ひとをいたわるかのごとき運動」ではなく、「ひとは尊敬されるべきもの」であるという精神を継承し、「民主社会の中に部落問題の解決を見いだす」と決めた以上、困難や逆境に直面しても、目標をやり抜こうとする組織全体の強い意志や気構えを持ち、前進させなければならない。この選択こそが、民主的運営としての組織形態であり、部落解放同盟組織の運動の方向を指し示すものである。膨大な時間を有するだろう。時には意見が対立し、合意形成に戸惑うことだろう。その議論の発展にこそ「良き日」があることを肝に銘じよう。