部落差別が引き起こしたえん罪 狭山事件50年

狭山事件が起きて今年2013年5月で50年を迎えた。半世紀という想像を絶する時間の間に、狭山事件を知らない若い世代も増えている。狭山事件をイチから学び直すために、狭山事件の概要、石川一雄さんの無実を示す数々の証拠、仮出獄以降の闘い、第3次再審の現状などについてあらためてまとめた。

狭山事件とは

1963年5月23日早朝、別件逮捕された時の石川さん。当時24歳だった。

1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が学校帰りに行方不明となり、その夜、身代金を要求する脅迫状が届けられた。5月3日、警察は身代金を受け取りにきた犯人を取り逃がし、翌4日、女子高校生の遺体が発見され、警察は世論の大きな批判を浴びた。

警察は市内の被差別部落に見込み捜査を行い、5月23日早朝、石川一雄さんを別件逮捕した。石川さんは1ヶ月間無実を訴え続けたが、兄の六蔵さんが犯人であるかのような取調官の言葉に乗せられ、ウソの自白をしてしまう。その後、架空の「自白」を積み重ね、犯人として起訴された。

1審はわずか半年の裁判で翌年1963年3月に死刑判決が言い渡される。石川さんは東京拘置所で他のえん罪死刑囚と話すなかで警察にだまされたことに気づき、2審の第1回公判で「俺は殺していない」と無実を訴えた。

2審では石川さんの無実を示す証拠が次々と弁護団から明らかにされ、誰もが無罪判決が出されるものと思っていた。しかし、1974年10月31日、現場検証や証人尋問を行うことなく、寺尾正二裁判長は無期懲役の判決を出す。1977年に最高裁は事実審理を行うことなく、上告を却下。判決が確定し、石川さんは千葉刑務所で受刑生活を強いられることになる。

弁護団はただちに再審請求を行うが1980年に棄却。その後の異議申し立て、特別抗告も棄却された。その後、1986年に第2次再審を申し立て、筆跡鑑定や元刑事の証言など数々の新証拠を提出したが、1999年東京高裁は再び棄却を決定。第2次再審は13年間の長期にわたったが、ただの一度も事実調べは行われなかった。

弁護団は2006年に第3次再審を請求。数々の新証拠や100万筆を超える署名などが提出されるなかで2009年6月、門野博裁判長が裁判所、検察官、弁護団による3者協議の開催を決定。検察は当初は証拠開示をかたくなに拒否していたが、同年12月裁判長が検察側に証拠開示を勧告。以来、現在(2013年4月)までに126点に及ぶ証拠が開示されてきた。しかし、肝心の証拠リストや殺害現場をめぐる証拠などは「不見当」(見当たらない)などとしていまだ開示されていない。

石川さんは第2次再審請求中の1994年12月に仮出獄。31年7ヶ月ぶりに故郷の土を踏むが、そのときには両親はすでに亡くなっていた。石川さんは「見えない手錠をかけられたままでは」と、無罪を勝ち取るまで両親の墓参りはしないとの決意で闘いを続けている。支援者であった早智子さんと1996年に結婚。以来二人三脚で全国を行脚し、無実を訴え続けている。

脅迫状・筆跡

明らかに違う「筆跡」

明らかに違う筆跡。石川さんは事件当時
ほとんど文字を書けなかった。

確定判決では、真犯人が残した唯一の物証である脅迫状の筆跡と石川さんの筆跡が同一ということが有罪の大きな根拠とされた。

しかし、筆跡に関する警察側の鑑定は、それぞれの文字のなかで似ている部分だけを抜き出したデタラメなもの。石川さんが事件当時に書いた「上申書」の文字と比べてみると、筆跡が違うことは誰の目にも明らかだ。

弁護団は、『日本語練習帳』などで知られる著名な国語学者、故・大野晋さんをはじめ、数多くの専門家による筆跡や書字能力に関する鑑定書を新証拠として提出。脅迫状は石川さんが書いたものではないことを証明してきた。

第2次再審で、筆跡の違いを否定できなくなった裁判所は、弁護側が指摘した筆跡の違いについて「書き手の置かれた環境、心理的立場、条件の違い」によって生じたものとして「筆跡に違いがあっても書き手が違うとは限らない」との暴論を理由に再審を棄却した。

「筆跡に違いがあっても書き手が違うとは限らない」のならば、全ての筆跡鑑定は無意味。裏返せば警察側の筆跡鑑定にも証拠能力はないということになるだろう。

そもそも「脅迫状」は書けなかった

脅迫状(上)と石川さんが書いた上申書(下)には、筆跡だけでなく句点や改行の有無など書字能力にも明かな違いがある

部落差別による貧しさからほとんど学校に行けなかった石川さんは事件当時、文字を書いたり文章を作ったりする能力がほとんどなかった。

石川さんが逮捕前に書かされた「上申書」では、簡単な漢字だけでなくひらがなにも誤りが見られる。弁護側の鑑定では、漢字の使用だけでなく、句読点の使用や改行の有無、作文能力などあらゆる角度から石川さんの国語能力を分析し、事件当時の石川さんの国語能力では脅迫状は書けなかったことを明らかにしている。

一方で、「脅迫状」は書字能力、表現力、文章の構成力などの高い人がわざと当て字を用いて書いたものであることがわかっている。

また石川さんの「自白」では脅迫状の入っていた封筒の宛名の文字「少時様」は、脅迫状の本文と同じくボールペンで書いたことになっているが、長年鑑識で鑑定にあたってきた鑑定人によって万年筆で書かれたことが明らかになっている。事件当時、石川さんは万年筆を持っておらず、石川さん宅にも万年筆は1本もなかったことが分かっている。

さらに石川さんの「自白」では脅迫状・封筒を作成し、数日間持ち歩き、被害者の殺害後に訂正し、被害者宅に届けるという一連の犯行のどの段階でも手袋を使用したことにはなっていないが、脅迫状からは石川さんの指紋は一切発見されておらず、また手袋の痕があることが明らかになっている。

筆跡、書字能力、国語能力、脅迫状・封筒の状況から石川さんが真犯人でないことは明らかである。

ねつ造された「万年筆」

インクの色が違っている

被害者が事件当日使っていた万年筆のインクはライトブルー。押収された万年筆にはブルーブラックが入っていた

石川さん宅から発見され、有罪の有力な証拠とされた「被害者の万年筆」は、狭山事件の疑惑の「証拠」のなかでも極めて「ねつ造」の疑いが濃いものだ。

埼玉県警は石川さんが逮捕された5月23日に12人の刑事によって一回目の家宅捜索を行った。石川さんが再逮捕された翌日の6月18日にも14人の刑事によって2回目の家宅捜索を行った。

当時の狭い石川さん宅を家宅捜索のプロである刑事のべ26人が合計4時間をかけて徹底して捜索を行っても発見されなかったものが、なぜか3回目の捜索では簡単に発見された。

「万年筆」が発見された石川さん宅のお勝手場入り口の鴨居は床から175・9センチ、奥行きは8・5センチしかなく、簡単に目に止まる場所。徹底した家宅捜索で見落とすことはありえない。

万年筆は被害者のものなのか?

そもそも発見された「万年筆」は、被害者のものなのか。

発見された「万年筆」に入っていたインクは、被害者が以前から常用し、事件当日のペン習字の授業でも使っていた「ライトブルー」ではなく「ブルーブラック」。「万年筆」からはインクを入れる内部のスポイド部分を含めて、被害者の指紋は一切検出されていない。

裁判所は被害者がペン習字の授業後、「ブルーブラックのインクを補充した可能性がないわけではない」と強弁し、疑問点をごまかしたが、もしインクを入れ替えたならば指紋がないことはかえって不自然だ。

この「万年筆」の存在こそが、石川さんを犯人にしたてあげたことを証明する有力な「証拠」であることは明白だ。

鴨居にはなかったと元刑事が重大証言

第1回家宅捜索時の写真。元刑事の証言どおり、鴨居の前に脚立が置かれている

石川さん宅はベテラン刑事たちによって2度にわたって徹底的な捜索がなされている。第2次再審ではその捜索に加わった元刑事たちから重大な証言が証拠として提出されている。

元刑事らは「万年筆」が発見された鴨居は、当然捜索した場所であり、特に捜索の責任者だった元警部は鴨居の右端にあった穴をふさいでいたボロ布を取り出して、その中も調べたうえで「こんなところをちゃんと調べなきゃだめだ」と部下を叱ったとまで証言している。

さらに1回目の家宅捜索に参加した別の元刑事は「踏み台のようなものをおいて、その上に登り捜索した」「鴨居の奥のほうまで見えるが、なにもなかった」「ずっとあとになって、鴨居から万年筆が発見されたといわれ、びっくりした」「私が間違いなく探して、何もなかったところなのに、本当に不思議に思った」と鴨居に万年筆がなかったことを明確に証言する供述調書を弁護団に提出している。

この証言を裏付けるように1回目の家宅捜索の鴨居のすぐ前に脚立のようなものが置かれている写真が残されている。

当時の石川さん宅の間取りは4畳半程度の部屋が5つであり、鴨居の高さはわずか175・9センチ、奥行きは8・5センチしかなく、それを家宅捜索のプロである刑事26人が計4時間をかけて捜索して見逃すことはありえない。

裁判でも第1審の内田裁判長は鴨居が人目につきやすいところであることを認めながら「そのためにかえって捜査の盲点となって見逃したのではないか」とデタラメな推論を展開。

2審の寺尾裁判長にいたっては一切現場検証を行わないまま、1審とは逆に「背の低い人には見えにくく、人目につきやすいところであるとは認められない」として有罪判決を下しているのである。

インクの違い、被害者の指紋が一切検出されない不自然さ、そしてこの元刑事らの証言は「万年筆」がねつ造された証拠であることを明確に示している。

殺害方法

自白は「扼殺」、客観的事実は「絞殺」 

殺害方法が石川さんの自白と
客観的事実では異なっている

殺人事件で最も重視されるべき証拠は「殺害方法」。殺害方法が自白と一致しているかどうかは自白の信用性をはかるうえで決定的な意味を持つはずである。しかし驚くべきことに狭山事件では、石川さんの「自白」による殺害方法と、客観的な状況が矛盾している。

石川さんの「自白」では、被害者が大声をあげたので、右手でのどを押さえているうちに、気がついたら死んでいたということになっている。手で首を絞めて殺害することを専門用語で「扼殺(やくさつ)」という。

これに対して弁護団は、法医学者による鑑定書を多数提出し、被害者の首のあとから実際には柔らかい布のようなもので首を絞められた「絞殺(こうさつ)」であることを明らかにした。

被害者の首の前部についていた繊維の折り目のようなあとは、手で首を絞めたときには決してつかない。被害者の状況は殺害方法が「絞殺」であることを客観的に示している。

当初殺害方法は「扼殺」と認定していた裁判所は、弁護団によるこの証拠によって「絞殺」を否定できなくなり、第1次再審の特別抗告棄却決定では、手とタオルを併用したと言い出し、さらに第2次再審の異議申立棄却決定では、ブレザーやブラウスなど被害者の服を巻き込んで手で締めたとして、殺害方法の認定が勝手に変更した。

自白した真犯人が殺害方法について嘘をつくことなどありえない。この一点を見るだけで石川さんの自白が虚偽のものであることは明らかである。

裁判所が勝手な推測で事実の認定を何度も変えて良いはずがない。確定判決に決定的な疑いが出れば、裁判所は本来再審を開始しなければならないのである。

犯行現場

20メートル先で農作業をしていたOさんの証言

「A」はOさんがクルマを止めていた場所。農作業を終えた場所「B」と自白による殺害現場「C」はわずか20メートルしか離れていない

石川さんの「自白」では犯行現場は、被害者が死体が発見されたところから200メートルほど離れた雑木林ということになっている。

しかし、事件から18年たった1981年、雑木林のすぐとなりの畑で「犯行時刻」とされる時間に農作業をしていた人がいたことが検察庁が開示した証拠から明らかになった。

農作業をしてたOさんは悲鳴も聞いていないし、人影も見ていないと証言しており、この雑木林が犯行現場でないことは明らかだ。

石川さんの「自白」では、雑木林のなかで強姦しようとしたら、被害者が「助けてと叫び、大声を出して騒いだ」「キャーキャー騒いだ」ということになっている。しかしOさんは「事件当時から、本当にそこで犯行があったのだろうかと疑問に思ってきた。もしそこで被害者が悲鳴をあげたのであれば、私はそれを聞いたはずだが、そのような悲鳴は聞いていないし、犯人の方も私が農作業をしている音を聞いたはずだ」と証言している。

Oさんが農作業をしていた場所から、「自白」の殺害現場、被害者をしばった松の木、殺害後思案した桧などは、わずか20メートルから30メートルほどしか離れていない。

さらにこの雑木林からは、血痕反応をはじめ事件と結びつく証拠は何一つ発見されていないのである。

部落差別にもとづくえん罪

差別、偏見が見込み捜査、偏向報道へ

予断と偏見に満ちた当時の新聞記事。根強かった住民の差別意識をこうした記事がさらに煽った

狭山事件では身代金を取りに来た犯人を目前にしながら警察は取り逃がしている。警察はこの直前にも別の誘拐事件で同様の失態を起こしており、被害者の死体が発見された5月4日には警察庁長官が辞表を提出。国会でも取り上げられるなど大きな政治問題にも発展し警察は非常に追い込まれていた。

焦った警察は、部落に対する予断と偏見にもとづく見込み捜査を行い、石川さんの他にも3人の部落青年が逮捕されるなど、強引な逮捕や自白の強要が行われた。その背景には当時の根深い部落差別意識がある。

事件の直後から地域住民の間では「あんなことをするのは部落民に違いない」といった差別意識が露骨に表れていた。

マスコミは石川さんが別件で逮捕されると「乱暴者の土工」「常識外の異常性格」など犯人と決めつけ、さらに石川さんの住む地区を「特殊地区」「犯罪の温床」などと書き連ね、住民の差別意識や偏見を煽った報道がなされた。

こうした地域の根強い差別意識と捜査側のリークに基づく偏った報道によって、石川さんが犯人であることがあたかも既定事実であるかのような「空気」が醸成されていった。

事件当時の報道の一部

「環境のゆがみが生んだ犯罪 用意された悪の温床」(埼玉新聞)/「石川の住む『特殊地区』には毎年学校からも放任されている生徒が10人くらいいるという…こんどの事件の捜査の過程で同じような犯罪をおかす危険性を持つ多数の若者たちの存在が浮き彫りにされた」

「犯罪の温床四丁目部落 ○○さん殺しの背景」(東京新聞)/「○○さんの死体が、四丁目に近い麦畑で見つかったとき、狭山の人たちは異口同音に『犯人はあの区域だ』と断言した」

今年こそ再審開始を

第3次で広がる支援の輪

足利事件、布川事件、袴田事件など多くのえん罪被害者も狭山事件を支援している

狭山再審闘争は第3次に入って大きな展開を見せている。

足利事件、氷見事件、布川事件、東電社員殺害事件など、近年多くのえん罪事件が明らかとなり再審無罪が勝ち取られている。多くのえん罪事件に共通するのは強引な取り調べによる自白の強要だ。自白と客観的な証拠に少々の矛盾があったとしても、裁判所は自白を偏重してきた。自白の強要を見抜けず誤判をくり返してきた裁判所にも大きな反省が求められた。

郵便不正事件では、ありもしない事件がでっち上げられ、検察官自身が証拠をねつ造、改ざんすることも明らかになった。

こうした多くのえん罪事件への反省からの公正な裁判を求める大きな流れと弁護団の地道な新証拠の積み重ねが実を結び、裁判所、検察、弁護団による三者協議が実現し、これまでに126点の証拠が開示された。

逮捕当日の石川さんの上申書をはじめ、石川さんの「自白」をもとに発見されたとされる万年筆、腕時計、かばんのいわゆる「秘密の暴露」関連の捜査報告書。特に腕時計では、革のバンドで被害者自身も被害者の姉も使っていない穴が使われていたことも明らかになっている。

一層の証拠開示とともに新証拠に関わる事実調べを求める声を一層高めていかねばならない。

かつてない運動の広がり

第3次再審では、部落解放同盟、全国各地の住民の会、宗教者などの活動に加えて、狭山再審を求める市民の会の活動を契機に多くの文化人からも公正な裁判を求める署名が寄せられている(下記に主な名前)。

また石川さん、早智子さんの東京高裁前での地道な訴えは、これまで狭山事件を知らなかった人たちにも確実に届きはじめている。フェイスブックページ「狭山事件の再審を実現しよう」を立ち上げたノジマミカさんもその一人だ。

ノジマさんは、たまたま東京高裁を訪れた際にビラを受け取り、後日ビラを読んで事の重大さに気づき、現地調査に赴き無実を確信し、自ら行動を起こしたという。

狭山事件は市民の感覚からすれば、明かなえん罪事件である。50年を迎えた今年こそ、証拠開示の流れを一層推し進め、事実調べ、再審開始を実現するために、大きな世論を高めよう。

狭山事件の公正な裁判-事実調べ・再審開始を求める文化人署名(一部抜粋)

赤川次郎(作家)、浅井慎平(写真家)、雨宮処凜(作家)、石坂啓(漫画家)、永六輔(ラジオタレント)、大谷昭宏(ジャーナリスト)、鎌田慧(ルポルタージュ作家)、神田香織(講談師)、桂あやめ、小室等(ミュージシャン)、斉藤貴男(ジャーナリスト)、坂田明(ミュージシャン)、佐木隆三(作家)、佐高信(評論家)、佐野洋(作家)、辛淑玉(人材育成コンサルタント)、鳥越俊太郎(ジャーナリスト)、中山千夏(作家)、庭山英雄(弁護士)、羽仁進(映画監督)、辺見庸(作家)、本多勝一(ジャーナリスト)、宮崎駿、やくみつる(漫画家)、山田洋次(映画監督)、梁石日(作家)、湯川れい子(音楽評論・作詞)ほか。

関連リンク

冤罪狭山事件(石川早智子さんのページ)
http://www.sayama-jiken.com/ 

狭山事件の再審を実現しよう(フェイスブック)
https://www.facebook.com/sayamajiken

ドキュメンタリー映画 見えない手錠をはずすまで
〜狭山事件 石川一雄〜
http://sayama-movie.com/

狭山事件 石川一雄さんは無実だ(youtubeの動画)
企画制作・狭山事件の再審を求める市民の会

弁護側への証拠開示を保証する署名用紙(PDFファイル)
狭山事件の第3次再審の実現とえん罪に苦しむ多くの人々の救済のために弁護側への証拠開示を保障する法律の制定を求めましょう