Vol.166 水道民営化から考える「公」と「民」の役割

2010年7月28日国連総会において「水と衛生に対する人権決議」が採択された。
この決議は、安全で清浄な飲料水と衛生に対する権利を、生活と人権の十分な享受のために不可欠な人権として認めたもので、まさに「水は人権」であるとの宣言であり、水へのアクセスを人権と規定した歴史的かつ画期的な出来事である。
と紹介しているのが、「日本の水道をどうする?民営化か公共の再生か」(内田聖子編著)という一冊の本だ。蛇口をひねれば24時間365日安全で質の高い水道水がすべてのひとに提供される。こうした当たり前になってしまっている“水”というものに対して、あらためて水の価値を再認識し、「どのような水道を求めるべきなのか」「将来世代とも、他国の人びととも水を分かち合うためには、どうすればよいのか」を、民営化の是非を越え、語り合おうと呼びかけている一冊である。
 
1950年の日本の水道普及率はわずか26%であったのが、60年には53%、70年には81%と急上昇しており、各地に浄水場や水道管などのインフラが整備され、水質も大きく向上することとなる。現在の普及率は98%に達し、「国民皆水道」がほぼ実現されている。
病院や交通、電気、ガスとあわせて上下水道は、住民の生活基盤にとって欠かすことのできない公共サービスであり、「地方自治の発展に資する」ための公共の福祉を増進させるための事業として、現代は位置付いている。

しかし、日本の水道は大きな曲がり角を迎えることとなる。それは、人口減少に伴う自治体の財政難という問題からだ。ここから導かれる方策として登場してきたのが、水道事業の業務の一部を民間企業委託するという民営化論だ。とくに浄水場の運転管理などを一括して民間企業が受託するケースが全国に急速に拡大していくこととなる。政府の意図は、国内の水道を「民営化」して日本企業に管理・運営のノウハウを積ませてグローバル水企業へと育て、アジアをはじめ途上国・新興国へ進出させようという目論見のようだ。たしかに日本の技術水準は高く、技術支援を通じた国際協力や個別分野での民間企業の活動は意義あるものであろう。しかし、運営権自体を買うというコンセッション方式や完全民営化担う主体になることが急速に進めば、日本発のグローバル水企業が途上国・新興国の人びとへの水へのアクセス権を奪い兼ねない事態が生じることが危惧される。すべてのひとにとって水は人権であり、水へのアクセス権という権利を侵害してはならないことは言うまでもない。

特定の個人や私企業の利益ではなく、市民や利用者の視点に立って、「地域の水」を守るとりくみを貫かなければならないという基本を守りつつ、人口減少に伴う自治体の財政難という課題を乗り切るための知恵と工夫が同時に求められるきわめて厳しい分岐点に立っているという自覚も必要となってきている。

「人口が急減するなかで、水道を含む多くのインフラはダウンサイジング(小規模化)だけで対応可能なのか」。あらためて“公共”とは何かを問い直す時代を迎えたようである。
「公営か民営か」という二項対立の議論だけでは、日本がかかえる課題は解決しないだろう。いま最大の問題は、財政難や施設の老朽化に直面している自治体に対する政府の処方箋が、改善の方向と大きくずれていることが最大の要因のようだ。と同時に多くの市民も、「水道は当たり前のように提供される」という意識から転換できていない。現在も途上国の一部では、住民自らが河川の水を管理し、責任を負う。彼等と私たちとの根本的な違いは何だろうか。私たちは、先人達の努力の成果としての水道を無意識に享受するだけの存在になっていないかと呼びかけている。

わたしたち部落解放同盟も隣保館はあって当たり前、公営改良住宅も未来永劫続くものという意識から脱却できていないことは共通項だ。各部落の少子高齢化の深刻さも同様だ。当該自治体の財政難も同じように押し寄せてきている。また、今後の隣保館や公営改良住宅の管理・運営にも民間委託という波が迫ってきている。
あらためて「公営か、民営か」という対立の構図ではなく、明日のわがまちを人権の視点でどうしていくのか、それこそ地元行政や研究者と真摯な議論が闘わされなければならない時代である。
先人達は、さまざまな方法を探求し、実践し試みてくれた。その成果を享受しているのもわたし達だ。
止まっていてはダメで、民間委託の研究も行政における公共の役割も大いに議論し、その部落にふさわしいまちづくりのビジョンを創りあげることが求められている時代の到来である。