Vol.274 憲法の具体化としての包括的人権法に立ち返るべき

最近「天賦人権論」という言葉が国会でささやかれる程度だが話題となっている。

「天賦人権論」とは、「すべて人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利をもつ」、「その権利は国家などから与えられたり、奪われたりするものではないという」考え方であり、フランスやイギリスの啓蒙思想家であるルソーやミルをはじめとした法学者らによって主張された思想である。

明治維新後、日本にもその考え方が紹介され、明治前期の自由民権運動の理論的支柱となり、その代表格が福沢諭吉であり、従来の封建制を批判し、人はみな天から平等に人権が与えられていると主張した考え方が、「天賦人権論」である。

つまりは、戦後の日本国憲法の骨格とも言える考え方であり、わが人権運動にとっても基本中の基本となる思想でもある。

その「天賦人権論」という考え方を止めようという動きが自民党の一部や保守系のひとたちから言われはじめている。「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう」という考え方の登場だ。

もっと言えば、「国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、をみんなで考えよう」という捉え方となり、権利ばかりを人権という誰もが否定しにくい言葉で主張し、まったく義務を果たさない国民が増えているではないかというのが、この考え方の基底となっている。

それが度の過ぎた考え方にまで発展すると「夫婦別性には生産性がないからダメ」といった主張や「障がい者に対する税金の投入は生産性がないのにムダだ」との差別発言。「生活保護費は削減すれば良い−働け、働け」と生活困窮者支援は切り捨てろと言わんばかりの勢いとなる。

もっともこの考え方が反映されているのは、2016年から矢継ぎ早に制定された人権関連三法だ。「障害者差別解消法」「ヘイトスピーチ解消法」「部落差別解消推進法」と相次いで議員立法で制定され、2019年には「アイヌ施策新法」、2023年は「LGBT理解増進法」と続いている。

しかし、振り返って2002年から歴史を見れば、人権と名のつく法案が、閣議決定され国会で3度審議されている。「人権擁護法案」「人権侵害救済法案」、そして民主党政権で提案された「人権委員会設置法案」である。この人権三法とも根底にある考え方は、人間は生まれながらにして自由であり、平等であるという、それこそ天賦人権論をベースに法律の建付けがされ、誰もが人権侵害を受けたときの救済や人権侵害への規制にまで踏み込んだ法案である。

ところが、この人権という考え方が、突如2013年ぐらいから方針が変わりはじめてくるのである。

自民党の政策集−つまり選挙用のマニフェストは、「人権救済に関する方針として、・・・個別法によるきめ細やかな人権救済の推進」と題し、「今後も、差別や虐待の被害者等人権を自ら守ることが困難な状況にある人々を個別法の充実により積極的かつきめ細やかに救済します」と述べ、人権全般の法律は必要なしとする考え方が、自民党の考え方であると発表されるのである。

つまりは、安倍第2次政権誕生あたりから登場してくる考え方が自民党総体としての方針だと主張されはじめるのである。

課題を抱えるマイノリティのみに限定した人権擁護という狭い枠組みで個別法対応するという自民党の考え方が前面に押し出されるようになり、何人も平等であるという「天賦人権論」が否定されはじめ、国民は権利を主張する前に義務を怠るなとする思想がじわじわと前に現れてくる。

西欧型の人権論が言う“すべて人間は生まれながらに自由かつ平等”という判断基準が、ひとを第一義として捉えていることに対して、自民党の一部や保守系のひとたちは、ひとを守ることを後ろに後退させ、まずは、日本という国を守ることを最優先すべきが、アジア、とりわけ日本の「歴史、文化、伝統」を守ることに結びついており、それを守る義務に基づいて最低限保障されてるのが“人権”だとする誤った考え方に捕らわれていると言わざるを得ない。

「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」という考え方から基本的人権という言葉が生まれ、何人も差別されないとの憲法につながっていくのである。一部にある「天賦人権論」の否定ではなく、憲法の具体化としての包括的な差別禁止・被害者救済の法制定という議論に立ち返るべき時である。