Vol.321 SNS時代 凶器となりうる「情報」とどう付き合っていくのか

1957年−いまから69年前。おおよそ70年前に評論家の大宅壮一氏は、「一億総白痴化」という言葉を生み出し、大流行したと記録されている。

「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。“白痴”−とは明らかな差別用語であり、良い表現とは言えないが、当時の世相を表す言葉として紹介した。

「本を読むという行為は、みずからが自分の意志で『これから本を読もう』と主体的に意欲を持って行う行為が、“読書”であり、同時に読むという行為は、活字をひろいあげてその内容を理解する必要があり、それには文字が読めなければならないし、内容を理解するために自分の頭のなかでさまざまな想像や思考を凝らさねばならない。それに対してテレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れてくる音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させる」といった意味合いが、「一億総白痴化」と表現され、大ブームを起こしたと回顧されている。

「一億総白痴化」という表現そのものが、差別的であり、現代における言葉としてはふさわしくはないが、その主旨から言えば現代版“一億総思考停止化”状態と言っていい時代を迎えつつあるというのはどうだろうか。いままでのテレビは、情報に対して人々を限りなく受け身に追いやっていく受動的なメディアであり、そこに映し出される映像は、すべて事実として受け止める傾向が強く、「今朝のテレビで観た」というのが、小学校での朝一番の会話になるように、ごく自然に人々の口から発せられる。また、テレビは、意図的ではないにしても、ある断面だけを切り取って象徴的な部分や刺激的な部分を何度も映し出し視聴者の頭の中にインプットしようとする性質のものである。

あまり掘り下げて考えることも無く、習慣のようにテレビからの情報を受け止め、考えるという行為をしなくなったという意味で、“一億総白痴化”というセンセーショナルな差別用語を使い表現したのであろう。

今、情報化の進展にともなって登場してきたのがSNSだ。SNS時代の到来はまた、情報の真偽を見極めることがきわめて重要なことであるのに対して、SNSでも受信者として限りなく受け身にさせられ、自分が気付いていない鬱憤を発信者として吐き出してしまうという構造があると言われている。また、自分と同じような考え方を持つSNSに出会うとますますその考え方に強烈に吸い寄せられ、「急激に素行の悪い外国人が増えている」といったデマを信じ、「賃金が一向に上がらない中、物価だけは上がり、いよいよガソリンリッター200円を超えた」といった事態に耐え切れず、みんなが強烈なストレスを感じている。

そういう現象が日本中で発生し、その真の根本的原因を突き詰めることなく、別のところに転嫁して、「外国人は出て行け」「お花畑みたいな理想論不要」「日本もそろそろ核武装すべし」と他人を叩いたり、誹謗中傷することで、自己満足を得るような風潮が強まってきている。

現代版「一億総思考停止化」とは、テレビ全盛の時代が過ぎ去り、SNS時代が到来し、新聞を読まない。テレビも観ない。情報元はネットだけというZ世代やアルファー世代がこれからの時代を担う世代だとすれば、想像力を働かせて物事を判断するという必要も無く、ネット上に溢れる自分に心地よい意見に酔いしれ、異なる意見へは断固とした誹謗中傷で応戦し、フェイクニュースには拍手喝采と、情報の質よりも注目を集めることが価値とされるアテンションエコノミーの影響をもろに受けている世代なのかも知れない。

ある意味では凶器とも言える“情報”を今後どのように扱って付き合って行くかが、現代における「情報リテラシー」という課題となる。情報を受け取る時にはどのくらい注意深く判断しなければいけないのかということを自覚する、またさせるという行為が、サイバー上の部落解放運動の大きな課題と言えるかも知れない。

ネット上に散見する動画や映像だけを見続ければ、物事を考える必要がなくなり、自分の目で見て、触って、耳をかたむけるという当たり前の作業がどんどん遠退いていくことになる。人間としての感性そのものが衰退していくのではないだろうか。難しいものを一生懸命に読み解き、調べて、自分の生き方や未来を考えていくということをしなくなってはいけない。ChatGPT に「5年後の自分はどうなってる」とは決して聞きたくはない。