人権を法制度に高める年 時代の潮流に即した運動を

 

2024年の年頭にあたって

2024年新たな年の幕開けである。

コロナ禍を経て転換点という時期も過ぎ、政治や経済も安定させるという成熟した民主主義を本来は追い求めなければならない日本であるにも関わらず、相変わらず富裕層と貧困層との貧富の差は拡大され続け、グローバル社会の到来と言われながら分断化の様相は日増しに高まり、国際的には平時ではなく有事の時代を迎え対立が激化している。

政治の世界に目を向けても政治不信は頂点を極めきわめて低い支持率での岸田内閣低空飛行が続いている。政治資金パーティーを巡っての裏金づくりが次からつぎへと明らかとなり、パーティー券の販売ノルマを超えた売り上げの還流を受け、それを政治資金収支報告書に記載していなかったとの疑いが浮上したからだ。「政治とカネ」という問題は常に政治家につきまとうものであるが、一掃できない政治に有権者は、閉塞感を強め、政治からの距離が遠ざかるばかりだ。

権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障することを目的に、さらには民主主義を深化させる役割として、権力を3つに分散させ、3つの機関がお互いに独立して、1つの権力に集中しないよう三権分立の

仕組みとして、国会の「立法権」、内閣の「行政権」、さいこ裁判所「司法権」が確立されている。

画期的な判決踏まえて

昨年の2023年は、この裁判所による司法権力で、画期的な判決が出された。それが6月に出された「全国部落調査」復刻版出版事件の控訴審判決である。特に部落問題の認識において、「本来、人の人格的な価値はその生まれた場所や居住している場所等によって左右されるべきではないにもかかわらず、部落差別は本件地域の出身者等であるという理由だけで不当な扱い(差別)をするものであるから、これが上記の人格的な利益を侵害するものであることは明らかであるが、(中略)本件地域の出身者等であること及びこれを推知させる情報が公表され、一般に広く流通することは、一定の者にとっては、実際に不当な扱いを受けるに至らなくても、これに対する不安感を抱き、ときにそのおそれに怯えるなどして日常生活を送ることを余儀なくされ、これにより平穏な生活を侵害されることになるのであって、これを受忍すべき理由はない」と指摘した点が重要である。

実際に部落差別を受けることがなくとも、これに不安感を抱き、怯えることで、平穏な生活に支障を来す行為は、人格的な利益を侵害するものだと断罪した。

つまり、部落の出身であるという理由だけで不当な差別を受ける可能性があることから、不利益や迷惑をこうむっても、耐え忍んで我慢しなくても良い、との司法判断が下されたことを意味している。だからといって、我慢しなくても良い方法について、明確に示されていないという問題点を含んでいる。差別とも言える誹謗中傷をネット上などで発信している確信犯に対する罰則も、規制や刑事罰といった“立法”が存在しない以上、ここが限界でもある。

しかしながら、司法のこうした判断が、法務省と総務省を動かし、行政権におけるインターネット上の誹謗中傷への対応策としてとりまとめられようとしており、2024年は、これを人権の法制度にまで高める年とすることである。プロバイダ等への削除要請が容易にできるよう、より以上の工夫を加えることや、削除要請したユーザーへの速やかな回答を義務づけるなどの法制化がのぞまれているところである。

行政権には限界が

しかし、行政権による努力にも限界があり、現在の法解釈では、あくまでもプロバイダ等による自主的な規制が速やかに行われるよう法律で配慮することにとどまり、肝心要の“差別や人権侵害”を禁止するという本丸にまで到達していないという問題を抱えている。

「表現の自由」「言論の自由」という優越性を保障させながら差別や人権侵害に規制を加えるというきわめて制約された難しい議論ではあるが、差別禁止のためには避けて通れない課題でもあり、今年の闘いのポイントでもある。

そしてネット上での人権侵害を許さないとの立場で、富田林支部が立ち上がった闘いを今年は、大阪府連として本格的な闘いにバージョンアップさせる重要な年でもある。投稿の削除を求める仮処分を大阪地裁に申し立てたのは、大阪府連でも富田林支部でもない。ひとりの男性に過ぎないのである。それが裁判であり、司法の闘いである。

つまり、ひとりの訴えでしか、司法は争えないという闘いであり、部落探訪でアウティングされたすべての被差別部落とそこに居住していたり、ルーツを持つひとたちすべてが差別を受ける可能性がありながらそのひとたちの人権を争うことはできないという限界を示している。こうした闘いを富田林支部のみの孤立した闘いにしてはならない。“富田林に続け”を合い言葉に第二弾、第三弾の闘いに突入させなければならない。

揺らぐルーツ

最後に、部落青年へのインタビューが掲載された雑誌が目に止まった。以下に紹介しよう。

「自分が部落民であるという自覚がほとんどない状態で今まで生きてきて、知ったからといっていきなり部落民として熱心に取り組むのは違うという気がしています」

「私は部落に生まれ育ったという自覚がありませんし、ましてや差別的なことを言われた経験もないので、部落民というのは自分の属性とは違うと考えています。(中略)部落民アイデンティティと自分とが重ならないのがその原因になっています」

「当事者意識が薄い自分が前に出て、部落民の代表として語っていいのかという違和感です」

これが現代版“部落青年の主張”というのか。確かに水平社結成当時の露骨な部落差別は陰を潜め日常的に部落差別が蔓延する現状ではないだろう。自分が部落民というアイデンティティは薄れ、ルーツが揺らいでいるという青年も多いというのが現実ではないだろうか。部落解放運動の発展から生じてきた矛盾とも言うべき時代なのかも知れない。どっぷり24時間365日部落解放運動にとりくんできた活動家レベルとはひと味もふた味も違う感性である。

やはり組織も個人も時代の潮流にマッチした部落解放運動を創造すべきであることに変わりはないようだ。

アイデンティティに揺らいでいる若いひとたちの期待に応えられるような組織に変革することが時代の趨勢であり、マッチョ型運動からの転換を一日もはやく果たさなければ、時代に取り残されてしまうことになる。時間は待ったなしである。

2024年組織の議論を発展させる“改革断行”の年にすべく47支部の奮闘を訴える。