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「坑道のカナリア」とか、「炭鉱のカナリア」という言葉をご存じだろうか。
炭坑で働く男性たちが、カナリアの入った鳥かごを携えて坑道に入って行くというお話だ。
当然、炭坑労働には多くの危険が常につきまとっており、未知の世界へ足を踏み入れるため、一酸化炭素などの有毒ガスに遭遇したときには、もう遅く気が付いた時には、身動きがとれず死に至るというケースがある。そうした時に、匂いやガスに敏感なカナリアは、まだにんげんの身体には害のないようなわずかな量の有毒ガスにも反応し、騒いだり気絶したりするらしい。それを見て危険を察知し避難するという安全対策の意味を込めて、「坑道のカナリア」「炭鉱のカナリア」という言葉が生まれたらしい。
このカナリアこそが、“マイノリティ”であり、社会的な課題や矛盾が真っ先にカナリア=マイノリティに現れると主張するのが、部落解放同盟の中央執行委員であり、栃木県連の委員長でもある和田献一さんだ。マジョリティにはまだまったくの変化が見られないが、こうした状態が数年続けば影響が出てくるであろう社会的な課題や矛盾が、真っ先に影響をもたらすのが、カナリアであるマイノリティに現れるというのである。貧困という課題やコロナ禍への影響、物価高といった生活を苦しめようとする社会的な課題が、マイノリティに降りかかり、やがては一般社会全体に広がっていくという例えである。
マイノリティの状況を見れば、これからの日本社会の課題や矛盾が浮き彫りになるというひとつの例えであり、カナリアこそ生命や生活の保障を最優先すべき階層であり、マイノリティに対する人権保障や権利の保障は当然のことのように最優先に率先して取り組まれなければならないと教えてくれている。
この視点から捉えれば、ヒューマンライツを人権と訳した時の主体は「すべてのひと」となり、「人間の生存にとって欠くことのできない権利および自由」という訳となる。しかし、「坑道のカナリア」という言葉の由来から考えれば、人権とは、すべてのひとが対象となるのではなく、生存にとって欠くことのできない権利と自由が侵害されている対象、つまりは、“マイノリティ”にこそ人権という視点で、権利と自由が保障されなければならないという捉え方をすべきではないかと主張したい。
つまり、人権は、“ヒューマンライツ”という「すべてのひとへ人権を」という捉え方ではなく、「人権が侵害されているマイノリティにこそ人権を」という精神が、世界人権宣言や水平社宣言の背骨の部分として脈々と受け継がれている底辺を成す基調ではないか、との投げかけである。
映画『破戒』の大阪における上映運動の代表を務めてもらった学校法人偕星学園理事長である成学社開成教育グループ代表の太田明弘さんは人権をヒューマンライツと訳したことが、人権の一般化を加速させ、マイノリティ当事者の権利保障という課題を後方にしてしまったのではないかとの疑問を呈した人物である。
マイノリティは、つねに差別や抑圧に対して抗いながら人権の保障や権利保障を求め続けるという闘争こそが基本であり、それが社会変革へのエネルギーへとつながるものであり、それをすべてのひとに人権を求める“仲良しこよし”的運動では、社会を転換させるようなダイナミズム溢れる社会運動は実現しないという意味にわたしは解釈したいと思っている。
水平社の運動も部落解放委員会活動も、そして部落解放同盟としての社会運動もその原点は、差別と抑圧に抗し、つねに社会的な課題や矛盾に声をあげ続け、社会変革へのたゆまぬ努力を積み重ねていくことこそが、部落解放運動の原点であることを再確認させられた思いである。
従来の“カナリア”はたぶん次のように解説されていたのだと思う。「主要な生産関係から除外されており」、また「低賃金、低生活のしずめ石としての役割」を担わされ、「差別意識が、客観的に空気を吸うように社会全体に広がって」おり、カナリアに対する差別は深刻であると。
では、現代版カナリアはどう解説されているのだろうか。
批判を承知で言うならば、「有毒ガスも出ていないのにガスだ。ガスだと騒ぎ立てるカナリア」と説明されているのか。「いやいやもうあなたは炭鉱労働者でしょう」と言われているのか。「有毒ガスも察知しない。それこそ唄を忘れたカナリアになったのでは」と言った批判にさらされているのではないか。
わたしたちこそ、もう一度「坑道のカナリア」であるという自覚と持ち、だからこそ有毒な社会悪を敏感に察知する人権感覚を日々研ぎ澄まし、社会運動をリードしようではないか!