Vol.178 個の自由に制限科す「緊急事態宣言」をどう受け止めるのか

「緊急事態宣言」が今日の夕刻(4月7日)に出されるようだ。
“緊急事態”とは、あらためて物々しい言葉である。
遅きに失したのか、タイミングはどうだったのかという事はさておき、戦後75年民衆が積み上げてきた自由や基本的人権を獲得してきた歴史において、戦後はじめて個の自由に制限が加えられようとしている。ドイツのメルケル首相は「旅行や移動の自由が苦労して勝ち取った権利である私のような者にとってこのような制限は絶対的に必要な場合のみ正当化される。民主主義社会において軽々しく決められるべきではないが、命を救うため不可欠だ」と述べた。

限定に限定を重ねて発せられるのが、緊急事態宣言であり、あらためて個の自由に一定程度の制限を科すという自由と民主主義の日本において、権力側が自粛を中心にするとは言え、抑制をかけるという今までに例のない時代を迎えようとしている。

制限をかけられるわたしたちにおいてもこの75年間という自由の歴史の重みを認識しつつ、ひとびとの生命を守るという一点において、緊急事態宣言を受け止めなければならない。

「ヒトからヒトにうつる感染症を減らすには接触の機会を減らすしかない」のがコロナウイルスとの闘いであり、わたしたちに出来る行動は、自粛のみ一点であり、濃厚感染を出来る限り減らすための努力を積み重ねる以外に方法はない。長いにんげんの歴史において、戦後多くの苦難を乗り越えて手に入れてきた自由と民主主義を一度封印してまでもコロナ撲滅のために緊急事態を受け入れるという覚悟をひとりひとりが自覚し、受け入れることである。

また、この緊急事態を宣言し、国民に絶対的な要請や指示、協力を呼びかける権力側、いわゆる安倍総理大臣には根拠をもった説明が求められることは言うまでもなく、それで国民が腑に落ちて納得出来る説明かどうかが、注目される。

つまり、個の自由を多少なりとも制限をかけるという権力側の恣意的な要請は、いつにも増して説得力と熱意が必要であり、信頼される内閣でこそ実現できるものである。正直、海外から「アベノマスク」と揶揄されるほどの物笑いの種になってしまっている安倍内閣に、果たして国民が拍手を贈るとも思えないが、命を守るための自粛要請には答えなければならない。

人類の発展にともないグローバルな社会の形成においては、今後ますますコロナウイルスのような未知との感染症との闘いは繰り返し行われるという社会になるだろうと推測されている。

つまり、コロナとの闘いの教訓は、このことを契機に、国家のあり方も世界経済の姿も、大きく構造転換を遂げていくという認識が必要ではないかと問いたいのだ。アメリカは、世界最大の経済大国であり、全世界の軍事費の半分近くを自国で使い果たすほどの史上最強の軍事大国であり、その経済力と軍事力を発揮してもなお国民の生命を守ることができないという、悲惨な惨状をわたしたちは目のあたりにした。

しかも、責任逃れのようにこれを「中国ウイルス」とか「武漢ウイルス」とか呼ぶことで危機の責任がアメリカ政府にはないとトランプ大統領は嘯(うそぶ)いている。

これまでは、軍事力や経済力にもとづいて「超大国」のランキングやイメージがつくりあげられてきたが、コロナ問題でその様相が大きく変わると言われはじめている。つまりは、今後の国力をはかるというバロメーターは、経済に強い、誇らしげな軍事力を持っている判断基準から、「命の安全と心の安心」が提供できている能力がその国にあるのかどうかが問われているという時代へと変貌を遂げているという時代認識が必要なようだ。「最低の生活保障、最高の医療保障、適正な福祉保障」など生活安全中心の国家競争力概念の重要性がますます重視されるという時代へ転換するべきであるということをコロナ問題を通してわたしたちは学ぶべきである。

アメリカは結局、民間の高い保険料を払っているひとにだけ医療が提供され、無保険の人たちへは何らの最低の生活保障も、最高の医療保障も、適正な福祉保障も存在しない状態である。幸せの幸福度は、経済や軍備でははかることの出来ない時代を迎えたのかもしれない。

ひとりの人間が10人接触する人数をふたりにまで自粛することが出来れば、医療崩壊も起こることなく、コロナウイルスも撃退の方向にむかうらしい。当面、自粛しかないようだ。