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コラム | 2019年5月15日
日本社会は、いま「思考停止」に入っていると言われているらしい。
携帯電話の普及が右肩上がりと同時にスマートフォンのめざましい拡大によって、電子メールからはじまりインターネット検索、LINE、Twitter、FacebookなどのSNSやゲームをはじめとするさまざまなアプリなど、いまや多くの人々にとって、手元になくてはならない便利な必需品であり、カラダの一部とさえ言える状況になってきているヒトも少なくないだろう。
このすさまじい進展が、スマホ依存、ネット依存、人間関係の希薄化など深刻な問題を一方でもたらしていると警鐘を鳴らしている学者や文化人も多数にのぼる。そこから出てきたキーワードが“思考停止”だ。
スマホという便利さを享受すると同時に、気づかないうちに、いじめや仲間はずれ、嫉妬や妬みの対象になるなど危険な罠に陥り、さまざまなものを失う可能性が指摘されている。「スマホ・ネグレスト」「プチ虐待」などの新しい造語も生まれるほど、“国民総スマホ化”状態という一種異様な光景が日本社会に写し出されている。
この“総スマホ化”状況によって、ヒトとヒトとのコミュニケーションのかたちを一変させたとは言い過ぎだろうか。LINEでつながる友達の輪は、すぐにでも知らせなければならない緊急の課題というよりは、何気ない会話の連続であり、それは、せわしない時間の連続でもある。休みなく続く会話に自分が取り残されてはいけないと必死になってついて行く。中身ゼロのつながりとは言い過ぎかもしれないが、極度なネット依存が、睡眠や食事などの日常生活を顧みないほどに蝕んでいる現実がある。
カナダ人ライターのクリスティーナ・クルックの著書、「スマホをやめたら生まれ変わった」(安部恵子訳)で、「スマホやインターネットを断つことによって、手放せたものが、(せわしない時間、私らしくない私、常にオン、共有しすぎ、比較ゲーム、中身ゼロのつながり)、その代わり得たものとして、(心の静けさ、幸福感、大切なヒトとの会話、私の手の中の時間、偶然の喜び、直感、ワクワクする日々)。そう、私は自分の人生を取り戻したのだ」とのべている。スマホを一時断食するというのも効果がありそうだ。
こうした「ネット依存」「スマホ依存」という深刻化しつつあるバーチャルな空間が、現代社会においても政治の舞台で同じような傾向が見受けられると思うのである。それは、大阪で吹き荒れている維新政治である。「多くの有権者が長年持ち続けていた政治への不信感や不満。社会に対して抱いている不平や不公平感といった懸念」をしっかりとキャッチして、「改革」「大阪の成長を止めるな」という“お得意のフレーズ”でそれを晴らすかのような幻想を与えるという、いわば「感情を統治」して有権者から多くの支持を得るという政治手法が、スマホ依存と酷似していると思えてならないのである。
「大阪都構想」を中心とした「大阪の成長戦略」というフレーズを繰り返し有権者に訴えているが、現実に即した政策は皆無で、感情をコントロールされた人々は、多少の矛盾は乗り越えて支持するという、いわばネット依存のように“改革派(エセ?)依存”として維新政治に支持が集まるという構図になっているのではないだろうか。
維新が改革派と主張するなら、間違いなくわが方には守旧派のレッテルが貼られる。公明党は、思考停止を強制され、住民投票への参加を表明するばかりか、都構想への賛成まで視野に入れた検討に入ったと報じられている。自民党大阪府連も一部に反対意見があるものの住民投票ありきという態度を表明した。都構想という「LINEグループ」に入らないと、大阪では仲間はずれになってしまうというのだろうか。もっと違うチャンネルから大阪の統治機構のありようについて、議論を深めることは出来ないのだろうか。
たぶん維新政治は都構想というアドバルーンをこれからも上げ続け、それに向かって走って行く事になるだろう。立ち止まることなど出来ないと思う。都構想という総論で走り続け、政策という各論はスルーするつもりなのか。スマホ依存の重症化が、「戦争しないとこの島は取り返せないのでは」と北方領土に関連した政治家失格の発言に端的に表れてきているように思うのはわたしだけか。
子どもに言われてるようである。「スマホよりわたしを見て」って。