Vol.155 統一選の悔しい負けをバネに次へ

2019年統一自治体選挙が終わった。
「民意がわかってないんだ」と厳しく意見してくれた友人が電話でそう語った。

維新によるダブルクロス選挙は暴挙で、これぐらいの非常識は、有権者はきっと理解するはず。それが“民意”だと理解していた。しかし、現実は違っていた。民意は、改革政党に風を興した。維新という政党を改革政党とは思わない。しかし、有権者は違っていた。もっと言えば都構想など現実になるか、ならないかという問題ではなく、改革のひとつのシンボルとして輝いた。
維新が大阪の政治を担うようになって、「地下鉄のトイレが見違えるほどきれいになった」「区役所の窓口の応対が凄く丁寧で親切だ」などなどやっぱり維新の改革は間違っていないと有権者は支持したのだ。

わが同盟は、自民や公明、むろん立憲などと一緒になって、「都構想といっても都にはなりません」「大阪市が解体されるだけです」と丁寧に説明を続けた。しかし、有権者にはそんなことはどうでもいい話であり、身近な役所が丁寧になり、通勤のトイレがきれいになることの方が、現実なのだ。その維新が掲げている都構想だから間違いないがないと選択した。
しかも自民から共産まで、同じフレーズを繰り返し、「都にはならない」「大阪市がなくなるだけ」との訴えを“野合”と呼ばずして何と呼ぶのかと維新の批判が的を得ることとなった。

「10年前の大阪に戻すな」「反維新の側は、自分たちの既得権だけを主張する団体だ」と維新は繰り返し訴えた。改革側は維新となり、守旧派は野合グループとのレッテルが有権者にはっきりと映るようになった。
従来の大阪市長選挙は、護送船団と言われたほど、自民、公明、民主系も含め労働組合やわが同盟も参画し、反共産の市長選挙として闘い抜いてきた。だからこそもたれ合いなれ合いの体質がはびこり、行き過ぎた行政施策に行き着いた部分があったことは否めない。
この勢力を野合と呼び、「行政の無駄を省く」「民間で出来ることは民間に」と大阪維新が登場した。この改革政党のイメージが、橋下さんが政界を去った後も松井さんや吉村さんに引き継がれ、既存の団体や組織に対する補助金や助成金などは大幅にカットされ、その財源が市民サービスの向上に充てられているような予算配分だと有権者は錯覚し、維新への支持を決定的なものまでに押し上げたのだ。

この大阪維新一強という国とは違う状況に対して、体制を立て直し、選挙をきちんと総括した上で、果敢にチャレンジしていく政治・選挙闘争の方針を打ち立てなければならない。
そのひとつは、地域課題をもう一度丁寧に掘り下げ、政策化することだ。少子高齢化と言われて久しいが、大阪の各部落の変化を読み取る力が、弱っている。もう一度地域課題を発見し、それを政策化する政治課題にチャレンジすることだろう。格差や貧困は、改革の身近な課題であることはどの党も共通認識のはずだ。維新が言う競争主義と効率優先で格差や貧困が政策化されれば、自己責任という言葉で排除される市民が出現することになるだろう。包摂をキーワードにこちら側の政策が求められる。

ふたつめは、「そこのけそこのけ維新が通る」ではないが、これほど強引に豪腕な政治手法で、大阪の政治を牽引させて良いのかという問題だ。新たな視点での政治参加の追求に府連は、立憲を選び下支えしてきたが、支持率は低迷し、多くの候補者は苦杯をなめた。結党間もないというハンディは覚悟の上だが、しかし、あまりにも無策のまま選挙戦に突入してしまった。「維新がけしからん」「国では安倍政権打倒」では、大阪の有権者への説明が不足していた。もっと子育て、文化、人権という立憲の得意分野を突き詰め、立憲らしいマニフェストが期待されていたのではないだろうか。あまりにも時間不足と努力不足が重なり、相手側の戦略にはまってしまった自滅に他ならない。

みっつめは、国の政治と大阪の政治が違ってきているという認識が必要だ。違うからこそ闘い方も変わるはずである。都構想というあまりに教条的で拙速な課題に対して、反対というアドバルーンだけではなく、人権のまちづくりとして部落からの提案という自分たちの政策をしっかりと訴えていく。そのための充電期間としてしっかりと学び、論議し、政策化するという仕事に着手しようではないか。

この悔しい負けをバネにして、つぎに飛躍するため共に努力しようではないか。