Vol.135 「誰一人取り残さない」をキーワードに

最近、「SDGs(エスディージーズ)」という単語を目にすることが増えてきている。如何にも難しそうでややこしそうな題名だ。これを英語で、Sustainable Development Goalsといい、日本語では「持続可能な開発目標」の略称だそうだ。はやい話が、国際的な枠組みを決めて、世界各国で取り組んでいこうという目標設定のことを指している。

2年前の2016年から2030年の15年間で達成するべき目標らしく、国連での協議を受けて、発表された考え方の総称である。

大きくは、17の目標でできており、そのそれぞれの目標がさらに約10個の小さな目標に細分化されている。この目標とは、まったく新しいものということではなくて、実は2000年から2015年に達成しようとしていたMDGs(ミレニアム開発目標)がその土台となっている。MDGsは、極度の貧困と飢餓の撲滅など、2015年までに達成すべき8つの目標を掲げ、各国で取り組むよう促している。

つまり、国連は、第二次世界大戦の痛烈な反省から同じような過ちを繰り返さないということを基本スタンスに、各国に呼びかけ貧困と飢餓をこの地球上から根絶するために約束事を決めて呼びかけたのが、MDGsである。

では、このMDGsとSDGsの決定的な違いはどこにあるのか。その違いはふたつあるそうで、その第1には、MDGsは国連や各国政府など、開発の専門家の目標だったのに対し、SDGsはあらゆる人々の目標だという点に違いがあり、そういう意味では、「すべての人々」が枕詞になっているということ。第2には、MDGsは、「何をすべきか?」という行動目標であったのに対して、SDGsは2030年に世界が「どういう状態になっていなければいけないか?」という成果目標になっている点が大きな違いである。

MDGsの達成期間である21世紀に入り、社会経済のグローバル化が進む中で、都市の貧困や格差は拡大され、社会的に排除され、取り残される人々の問題も明らかになってきており、持続可能な開発とは、もはや発展途上国だけの問題ではなく、先進国をも含む問題として顕在化してきたことが、MDGsの後継としてSDGsという考え方が登場してきた背景といえる。

SDGsの理念は「誰ひとり取り残さない」という考え方を基本のコンセプトにしており、この理念が示すように、SDGsは世界すべての人に共通する「普遍性」が特徴となる。その中身は、貧困の解決・飢餓の解決・教育などの社会目標、気候変動・エネルギー・生物多様性など環境目標、雇用・インフラ・生産と消費など経済目標に加え、不平等の解決・ジェンダーの平等・平和などが17の目標として体系的に整理されている。

たとえば、ゴール1「貧困をなくそう」の第1ターゲット「1.1」では、「2030 年までに、現在1日1.25ドル未満(日本円で138円)で生活する人々と定義されている極度の貧困をあらゆる場所で終わらせる」と具体的な年限と行動目標を示すという極めて具体的な数値目標が盛り込まれているなど、SDGsは、大きな理想を掲げ、その理想に向かってすべての人々が行動を起こすためのまったく新しいアクションプランだといえる。当然、わが国においても「日本のSDGsモデル」の発信を目指してという行動計画が発表され、ありとあらゆる所で、その実践が求められている。

わがフードバンク活動においても気候変動対策や循環型社会の実現をめざしての項で、食品廃棄物の削減や活用というミッションにおいて、フードバンク活動の推進が提起されており、SDGsがめざす社会像にフードバンク活動が果たす役割が明記されてことは、きわめて大きな意義あることだと主張したい。

わたしは、この「誰ひとり取り残さない」というSDGsの基本理念を社会的起業にもとりいれる必要性を痛感しているひとりでもあり、また、貧困と飢餓、そしてその課題が端的に表れている発展途上国問題だと断定してきたこれまでのMDGsという考え方を継承・発展させ、「すべての国々のすべての人々」と捉えたSDGsの問題意識は、これからの社会運動の根底を支える大事な信念であることを強調したいと思っている。部落解放運動は、被差別部落の人たちからスタートし、やがて町会や校区に広がり、それを人権のまちづくり運動だと力説した。今後は、「誰ひとり取り残さない」「すべての人々」という言葉が枕詞となって、運動を構築するという方向が求められている。

フードバンク活動も大量に廃棄されていた食品を市場にもう一度呼び戻し、貧困や社会的に排除されたひとたちに届けるという守備範囲から、「誰ひとり取り残さない」「すべての人々」をターゲットにした食品ロス削減と循環型社会の実現という崇高な社会運動にランクアップさせることが求められているようである。