「観客型民主主義」を脱して「参加型民主主義」を

水平時評 府連書記長 赤井隆史

ある会合で参加されていた幹部の方から、現在社会の状況は「参加型民主主義」ではなく、「観客型民主主義」だとの説明を聞いた。
例えていうなら、「アベノミクスによる憲法改悪」という舞台の主役を務めるのが安倍晋三首相。「なりふり構わず突っ走る都構想」というお題を演じるのが橋下徹維新代表で、多くの有権者は、この舞台を見ている観衆、観客だというのだ。
集団的自衛権の行使容認という禁断の一歩を踏み出し、自衛隊の海外での武力行使に道を開き、「専守防衛」を堅持してきた戦後日本の安全保障政策の歴史的転換点を迎えた。こうした異常事態をも有権者は、観客の側でじっと見続けている。演技する側と、それを観客席で鑑賞し続ける側とに明確に分かれている現状を、「観客型民主主義」と評したのである。

多くの有権者は、観客席でいまの政治の動向を鑑賞し続け、政治へコミットしたり、参加する有権者に変化することはないのだろうか。 有権者や市民が参加できる政治とは、参加しているという意識が芽生える政治は、どうしたら実現するのだろう。
民主党の政権が思うような成果を上げられず失敗した原因がそこにあるような気がする。“演技する役者”と“観客”という垣根を取っ払い、劇場にいるすべての人々が参加するミュージカルとなるにはいったいどんな演出が必要なのか。

わたしは最近の参加型人権研修にそのヒントを見いだしてはどうかと考えている。
ディベート、ランキング、フォトランゲージ、シミュレーション、ロールプレイ、プランニングなど参加型研修の手法は多様であり、それこそ政治家によるタウンミーティングという通り一遍の手法だけではない。

「方法はメッセージをもつ」という言葉があるが、たとえば教室で、「人権は大切である」というメッセージが学習内容として参加者に提示されるとする。しかし、もしその方法(学習形態だけでなく、教室の雰囲気や教師と生徒の関係などを含む)が参加者の人権を無視してしまえば、その方法自体が、内容と異なるメッセージとなり、参加者は矛盾する二つのメッセージを同時に受け取ってしまうことになる。そのような場合、その学習成果は決して期待できるものでないことは明らかだ。つまり教育の方法は、本来そのねらいや内容と一致したものであることが求められるわけである。

研修会の“受け手”と“聞き手”という関係ではなく、その場の雰囲気を和ませる中で、すべての参加者が持っている知識や経験、個性や能力を引き出し、相互の意見交流や相互理解を促進すること、そしてその過程で参加者が新しい発見をしていくことを重視していることが参加型研修の基本となっている。

“演技する役者”と“観客”という垣根を取っ払い、劇場にいる参加者ひとりひとりが、それぞれ異なる経験・知識・意見などをもっていることを尊重し、それらを引き出し、対話を生み出し、相互の学び合いを促進する役割がこれからの政治家に求められている。参加型学習では、指導者のことを「ファシリテーター(促進者)」と呼ぶように、政治課題を提起し、積極的に促進していく中心人物が、これからの政治家と呼ばれる時代ではないだろうか。

対話を生み出すきっかけづくりとして、いくつかの手法を活用し、参加者の意見を引き出しながらも、対話を通した学び合いに自分も参加し、必要に応じて自分の意見や立場を示していくことが、これからの政治家に求められるだろう。まさに対話の過程では、参加する者は常に対等な関係にあることが重要である。
「観客型民主主義」を脱して、ミュージカル型の参加者全員による「参加型民主主義」をコーディネートできる政治家の登場を期待したいものだ。