Vol.227 今こそ「不可侵不可被侵」の思想を

 

ロシア軍によるウクライナへの突然の軍事侵攻がはじまって2ヵ月。両国の軍事力と経済力については、圧倒的な差があり、ウクライナの早期の軍事的敗北だろうとの大方の予想を裏切るように、いまだ戦時は進行形である。

プーチン大統領の戦争はいかなる事情があろうとも正当化できるものでなく、一日も早い終戦や停戦を期待したいところではあるが、両国の停戦協議は辛うじて継続はしているものの、両者の主張になお隔たりは大きく、見通しは立っていない。

このロシアによるウクライナ軍事侵攻という事態に対して、テレビや新聞は連日過熱する報道を繰り広げ、学校、病院さえも攻撃の的にされ、ショッピングモールやマンションなど無差別に攻撃される事態が映し出され、民間人が大量に殺害され遺体が放置されている「ジェノサイド(集団殺戮)」にまで破壊攻撃が拡大され続けている。

しかし、これまでのシリアやイラク、アフガンなどでの様々な戦争状態について日本のマスコミがここまで大きく取り上げたことはない。それは、ウクライナへの軍事侵攻は、民間人が攻撃の目標にされているからその惨劇を報道するということなのか、軍隊と武装グループによる衝突であるという違いが報道にあらわれたのか。ロシア軍による突然の一方的な非正義の軍事侵攻という非道な蛮行へ痛烈な批判報道が日々繰り返されている。

戦いの場所であるという一定の陣地が定められ、武装した軍隊と武装した兵隊とがぶつかり合う戦争には報道する価値は少ないが、民間人がターゲットにされ、無差別に殺戮されるという惨状には報道の価値が生まれるのであろうか。戦争に正しい戦争と間違った戦争など存在するわけがなく、どんな状態であれ、戦争は最大の人権侵害であることに違いはない。

「外国での戦争について、日本人がこれほど真剣になることは例外的」だと指摘する論考が目に入った。しかし、連日報道される映像を目にすれば、当然生々しい現実からはやく停戦し、戦時状態から抜け出てほしいと思う市民感情には納得がいく。

居酒屋での四方山話ではないが、「ロシアはウクライナを多少の時間がかかろうが圧倒するだろうし、ウクライナはこれ以上戦ってもどうせ勝ち目はない。それなら早期に降伏するほうが非戦闘員の被害は少なく、よりそれが“人道的”だろう」と早期降伏を勧める“にわか居酒屋政治学者”が発言する。

その一方の側は、「イラクやアフガンには関心を示さなかったのにウクライナ問題に限って妙に真剣に意見を述べたりする−それこそ“ダブルスタンダード”ではないのか」と批判し、続けて、「世界のすべての不正と戦ってきた人間にしか目の前の不正について私見を述べる権利がない」と素人が口にすることさえも認めないと高圧的に一蹴する。そんなやりとりが居酒屋から聞こえてくる。
 
一方は早期降伏で、「長いものには巻かれろ」で、リスク回避を最大限に主張した考え方である。もう一方は、それぞれの戦争には意味があり、細部にわたるまでの事情を知らないものが、軍事侵攻に軽々しく賛成や反対を唱えるべきではない。と興味本位での主張を一蹴する。どちらにもそれなりの考え方として評価され、一定程度の支持をするひとたちもいるだろう。

しかし、わたしには現実に目に飛び込んでくる逃げ惑うウクライナのひとたちや防空壕で生活するひとたちがテレビで映し出されるたびに心が痛むし、ロシアの国内では、投獄や国によって処刑されるやも知れないという現実がありながら、そのリスクを侵しながらも「反戦」を掲げる市民たちの存在を見てはいけないものという扱いができるわけがない。知らないと嘯(うそぶ)くわけにもいかない。地球に同居しているという現実から見ても否定できないし、この共有しているこの時間においても戦渦で逃げ続けているひとたちの存在を決して忘れてはならない。

そのいずれのひとたちもこの地球に存在し、人間の尊厳を共有する権利を持つひとたちである。その双方に命の危険が迫っていることは事実であり、侵そうとするものに対しては戦うという世界のひとたちによる協同の歩みを求められていることは言うまでもない。
 解放の父といわれた松本治一郎委員長の「不可侵不可被侵」という思想こそが、今人類に求められている停戦を実現するキーワードなのかも知れない。