Vol.223 60年ぶりの映画化 なぜ今『破戒』なのか

 

『破戒』が映画化された。「なぜ、破戒?」「この時代に破戒とは・・・」と思ってしまうのは、わたしだけではないだろう。実に60年ぶり3回目の映画化らしい。

現代の部落問題とくに部落差別を表現する方法が、難しいこともあって、100年以上前の差別が生々しい時代であった『破戒』を映画にすることによって、いまなお部落差別が現代社会でも存在をし、出自を隠しながら生きているひとたちの心の葛藤と共通する部分などを描くことを目的としたのか。脚本、監督、製作した東映など関係者の意図が問われる作品としてこれからの評価に注目が集まることとなるだろう。

やはり差別が当たり前とも言える時代背景だとはいえ、“エッタが泊まった旅館の畳みが交換されるシーン”や“「出て行け」と石が投げつけられるシーン”。さらには、“「丑松(うしまつ)のような立派な人間が穢多な訳がない」とのセリフ”など、露骨極まりない差別の正確な描写が、無意識のうちに発せられる差別的な言葉と行動に心が突き刺されるものだ。

これほど露骨で理不尽な差別言動は現代社会には存在しないだろう。「まあ〜良い世の中になったもんだ」とこの映画を評価してはそれは一面でしか観ていないことに繋がるのだと思う。

部落差別が今よりはるかに露骨で生々しかった時代、部落に生まれたことを他人に知られるだけで相当な社会的不利益が生じた時代。主人公・丑松の父親は差別の根深さを誰よりも感じているだけに息子に対して絶対に出自を明かしてはならぬという訓戒を与える。この父親からの“戒め”に苦悩する丑松。それに背くか否か。部落民であることをカミングアウトし、生きていくのか。それともそこから逃げて出自を隠して生きるのか。丑松の煩悶(はんもん)がこの映画の一貫した脈絡だ。

当時だから部落の出自を隠すという行為は理解できるが、いまではそれほど露骨な差別や嫌がらせが横行してるわけではないのだから、ここまで神経質に出自を隠さなくても良いのではないかとの疑問が現代社会に投げかけられると捉えるひとも少なくないだろう。

主人公が部落民であることを隠して生きる姿を、同性愛者や在日コリアン、さらには婚外子、障がいを持っているひと、シングル・マザーや貧民であること、文字が読めないひとたちといった様々な差異を抱える人達と置き換えてみてはどうだろうか。こうした属性のアイデンティティーを隠して生きる姿と丑松を重ね合わせてみることで、自らの出自を隠して生きる主人公の苦悩、また戒を破って、困難な現実と向き合ってカミングアウトして生き抜こうとする姿と重ね合わせてみることだと思う。

自分が部落民であるという自覚は、誰からも否定されるものでもなく、また誰からも調べられたり、暴かれたりするものではない。自分が世の中から差別される対象である被差別部落にルーツを持つ人間であるというアイデンティティーを披露するか隠すかは、あくまで自己決定が最優先されなければならないことは言うまでもない。

しかし、一方で世の中に差別が蔓延している状況である以上、数人程度の会話や聞こえてくる井戸端会議の中からふとした差別表現や気まずい言葉が伝達されるケースは少なくない。『破戒』の映画ほど、露骨で明々白々な差別発言ではないものの、それを聞いた当時者にとっては、露骨であり、胸に突き刺さる表現としてトラウマのような精神的苦痛をともなうものだ。時代背景に違いあるが、マイノリティ当事者のアイデンティティーが暴露されたり、されるのではないかとの恐怖と不安という心の苦悩と葛藤を主演を演じる間宮祥太朗さんの静かではあるが、迫真の演技から読み取ってもらいたいと思う。

全国水平社100年を記念してつくられた映画である。
部落民という当事者が差別からの自主解放を求めた100年である。さまざまな成果や教訓としなければならない出来事がこの一世紀の間にあまた繰り返されてきたが、暴露される部落差別という現実は、戸籍や釣書(つりしょ)、就職の際の身元調査、部落地名総鑑などの差別的な歴史をたどり、現代では、ネット上でのアウティングとして陰湿化・悪質化してきており、100年たった今日においてもなんら変わることなく、部落差別の数珠つなぎ状態は現在進行形という悪質ぶりだ。

映画に登場する猪子廉太郎が、差別発言を繰り返す数人に対して声を張り上げた。「我は穢多なり」ー誇りを持ったマイノリティ当事者の宣言である。映画「破戒」は7月から全国ロードショーだ。