Vol.218 「親ガチャ」という言葉に思う どんな境遇の子も見捨てない地域社会を

 

親を選べないことを景品のガチャにたとえた“親ガチャ”という言葉を最近よく耳にする。“親ガチャ”とは、生まれもった環境や能力によって人生が大きく左右されるという意味で、「生まれてくる子どもは親を選べない」ことをガチャガチャに例えたランダム要素の強い「ガチャ」になぞらえた言葉である。
確かに親は選べないが、それで自分の人生が決まったように否定的に捉えてしまう子どもたちの存在に少なからずショックを覚えるのが、“親ガチャ”という言葉だと思う。

最近は、こうした子どもたちの存在を「非社会的」傾向の強い子どもたちと呼ぶらしい。
非社会的というのは、社会への適応が難しく、社会参加が困難で、ひとりぼっちを選び自分の部屋に閉じこもったりして生き方や人生を放棄してしまう傾向が強い子どもたちのことを言うらしい。

いわゆる引きこもりであり、それが小中という年齢の子どもたちから20代の若者の間でもこの引きこもり現象が広がっていると言われている。こうした事態が深刻になれば、自分の存在を消したいと自傷行為にはしるケースも少なくないと言われており、つまりは、非社会的な傾向の子どもたちは、社会へのあきらめや人生への絶望を怒りに変えて暴力を繰り返すと言ったこととはむしろ真逆で、社会への適応を放棄し、自分を傷つけ、社会生活から遊離した方向を選択するケースが目立つらしい。

わたしは来年で60歳の還暦を迎えるが、現在の40歳代ぐらいの年齢から上の世代は、むしろ非行に走るとか、社会に背をむけるいわば“反社会的”傾向を強めることで、社会に抗うという世代だったと分析されている。暴力による社会への抵抗、感情の発露を他人に対する暴力などによって自分の社会への怒りを爆発させる世代だと言うのである。

つまり社会への抵抗を他人にぶつけたり、バイクで暴走したり、学校の窓ガラスを割ったりすることで、怒りの感情を外へ爆発させることで自分の存在を社会にアピール(決して正しい方法ではないが・・・)した世代だと。

しかし、現在の若者は、外に感情を爆発させるのではなく、自分を自傷行為などで傷つけ女性なら援助交際、男性ならオレオレ詐欺の受け子などで、非社会的行為にはしる傾向が強い世代と言われている。

わたしたちの世代は、社会に対するエネルギーを外へと向かわしたが、今の若者たちは内へ内へと向いているというのである。

そうした現象の背景には、親からの愛情がきわめて薄いというのが、根本的な原因に挙げられるケースが少なくない。つまりは、壮絶なる虐待とネグレストの家庭実態である。自分の存在が社会に不必要だと小さいときから親の虐待で繰り返し打ちのめされ、生きてる気力すら薄れていくという幼少からの体験がトラウマとなって、若者に襲いかかるのである。

現実に起きている虐待やネグレストの実態は、養父からの受ける性的虐待や、7年間にも及ぶ監禁の実態、お風呂に繰り返し沈められ、コンビニ弁当以外食べたことがないという子どもが存在したり、兄弟5人の父がすべて違う子や、熱湯を背中からかけられるケースも少なくないらしい。何週間もオムツを替えない親の存在や親が外出するときは犬の檻に入れられると言った家庭事情、さらには、知らない人と自分の目の前で性行為する母の存在など、誰も助けてくれない現実が子どもたちにのし掛かってきているのである。

OECDの調査結果でも社会的孤立の状況も15%を超えているのは日本だけであり、ユニセフの調査でも孤独を感じている子どもの割合でも30%と他の国の2倍以上の数値を示している。子どもにのし掛かっている課題は想像以上に深刻だ。「どんな境遇の子どもも見捨てない」-誰もが孤立せずに社会参加できて希望を抱ける温かな地域社会の創造に取り組んでいくことが重要のようだ。

幼少の頃の壮絶な体験により、非社会的な生活を選び、人との関わりを極力避けるようにひっそりと生活したいと思っている子どもたちは、わたしたちの廻りに少なからず存在していることをしっかりと自覚し、この社会的課題の解決に立ち向かわなければならない。

「生まれてくる子どもは親を選べない」-“親ガチャ”という考え方が、努力への否定になったり、生きていくための勇気や決意の阻害になっているのであれば、そうした若者たちを、外へ飛び出させ、多様なひとたちとの交流の機会をつくることで、決して「この世に生を受けた人間に生きる価値がない」などという考え方を一掃することも、地域における部落解放運動の重要な役割でもある。