Vol.211 自民党総裁選で政治空白 加速する政治への「ネグレクト」  

「政治へのネグレクトが起きている」との指摘がチラホラ散見するようになってきた。
ネグレクトとは、「無視する」「怠る(おこたる)」「疎かに(おろそかに)する」と訳される。
子どもに対する教育という観点から保護・養育義務を果たさず放任する育児放棄や育児怠慢と言われる児童虐待全般に使われる言葉として定着している。
昨今の政治への閉塞感を“ネグレクト”と称し、それこそ“政治を無視する”という事態が深刻化してきているというのである。本当に政治に無関心であって良いのだろうか。

本来であれば、秋の総裁選に向けて自民党内の動きが激しさを増して、その後にある衆議院の総選挙に向けて、コロナ禍の日本は“政治の季節”へ突入していくのであり、菅政権の支持が下げどまらず、衆院選での苦戦が予想される自民党に対して、立憲を中心とした野党共闘はどう挑むのか。注目されるべき政治の舞台となるはずではあるが、一向に盛りあがらない政局である。

菅政権への支持率は低下を加速し、低空飛行と言うよりもジリ貧状態である。新型コロナウイルスの感染が急増し、医療崩壊のリスクが高まってきており、テレビや新聞での世論調査の結果では支持率が危険水域とされる“30%割れ”を起こしている。東京五輪での日本選手の活躍で追い風が吹くという政権の思惑は完全に外れ、自民党内では、菅首相の自民党総裁としての任期満了に伴い、駆け引きが激化しており、政治が注目されて然りではあるが、所詮は自民党内の「コップの水の嵐」の出来事とされ、一向に政治への期待が高まるというムードでもない。

「政治へのネグレクトは深刻」で、信頼されていない政府がどんなコロナ対策を打ち出しても、市民には響かず、効果が出ないというありさまである。そんな状況にあるとき、与党内、とくに自民党内での不毛な総裁選をめぐっての“政局”は、ますます市民の政治へのネグレクトを加速させ、政治不信を頂点にまで高めてしまいかねない危険水域であることを認識しなければならない。

いま市民側が求めているのは、コロナ禍という事態にあって、命の危機に対して、与党であれ、野党であれ、真摯に対応することであり、そうした姿を示して、与党も野党も国民の信頼を回復すること以外に道はないと思うのである。

立憲民主党をはじめ野党は「政治休戦」に一応の理解を示しているが、その“本気度”は首を傾げざるを得ない。また、自民党総裁選日程が優先され、国会開催が遠のくという事態に対しても「国会開催すべし」という野党側の主張にももうひとつ迫力が感じられない。

二大政党による政権交代のある政治を追求してきた平成以降の日本政治そのものを見直すという観点をそろそろ政治が持つべきではないかという主張は言い過ぎなのだろうか。

つまり、安倍、菅の両政権は、コロナ危機に対してこの2年あまり、既存の制度を変えないまま、陽性となりコロナに感染した患者に対して、入院等の判断や指導を感染症法という法律の枠内のみで対応したため保健所に一切の責任を押しつけたことで、限界を超える事態を招いたことは誰の目から見ても明らかだ。しかし、その結果、世界で有数の人口1人あたりの病床数を誇る日本で、自宅で重症化し、死に至るという政権の無策への怒りと絶望が、「政治へのネグレクト」を引き起こしていると捉えるべきである。そこで、いまもっとも必要なことは、政権の交代という程度の政治変革ではなく、政権運営そのものの質を向上させ、政治家の英知を結集させたコロナ禍への対応という日本全体がコロナに挑むという布陣をどう確立するかが問われている政治への期待ではないだろうか。

感染症法の一部を改正し、飲食業者への罰則を強化したり、コロナ患者への義務を課すといった場当たり的な対応ではなく、これからも起こるであろう全世界的なパンデミックに対しての抜本的な感染症法の新たな枠組みを議論し、時代に適応した法制定という仕事を成し遂げることこそが、政治の役割だと主張したい。

このまま自民党の総裁選が行われ、衆議院の総選挙へと突入することになれば、大きな政治空白が生まれることは必至である。この政治空白により、コロナ対策の空白が生じても良いのだろうか。政治の怠慢どころではなく、必要性まで否定される政治の壊滅という事態さえ予想される。国が確保すべき病院の病床数とは如何にあるべきなのか。感染症法の体系が時代に合わないなら、どういう方向に変えるのか、といった議論こそ政策論争すべきテーマであり、総選挙の争点であるべきだ。