Vol.206 被差別と加差別 そもそもの立場の優位性を意識できているか

立憲民主党内の「性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム」での議論において、本多平直議員が「14歳との性交、同意で捕まるのはおかしい」との問題発言が・・・。のちに謝罪・撤回したそうだが、性暴力被害の現実とのあまりにも落差がある発言であり、わたしも本多議員の今後の活躍に期待していたひとりとして残念ではあるが、ここは猛省してあらためて差別と人権問題に真正面から取り組んでいこうという気概を持って活躍されることを期待したい。

ここで気がかりなのは、「いわゆる性交同意年齢」について、立憲民主党のワーキングチームでは、「成人はいかなる理由を持っても中学生以下を性行為の対象としてはならない」という性交同意年齢の引き上げという提案について議論されているようではあるが、年齢だけに固執することなく、日本社会そのものがもともと女性を差別している社会として存立しているという現状をキチンと認識するところからスタートしていることを再確認してもらいたいと思っている。

つまり、女性の年齢が14歳であっても、20歳でも、30歳であろうとも男性と女性の関係そのものが被差別と加差別の関係として存立しており、日本社会そのものは、女性を差別する構図が成り立っているという所からこの問題をスタートさせなければならない。合意や同意は、男性が決めるべきものではなく、弱い立場である女性にこそその決定権を持つという関係でなければならない。つまり、何が差別か、人権侵害かという判断基準は、つねに差別を受ける当事者からの発信でなければならない。

斉藤章佳さんの「児性愛という病 それは愛ではない」という本の中では、12歳の少女と49歳の男性のケースが紹介されており、49歳の男性は、「子どもから求めていた」「子どもはよろこんでいた」という光景であり、少女側からは、交際しているという認識はまったくなく、怒ると声を荒げる男が怖くて、言われるがままになっていたのだとの被害内容が紹介されている。当然のことながら、子どもに肉体的・精神的に後々まで残る多大なダメージを与えた事件である。

人間関係における強い立場や被差別・加差別の関係における加差別側からすれば、「相手側は嫌がっていない」「キチンと同意している」という本人に対して了承を取り付け、同意を得ていると主張するのであろうが、もともとの関係が水平ではなく、ウィンウィン(Win-Win)の関係でもない。そもそもの地位や立場の優位性が存在している以上、対等な関係そのものが成り立っていないことを前提に、「合意を確認している」という加差別側の主張は、受け入れられないというのが、人権を捉えるべき物差しなのだ。

学生時代に、部落差別発言が飛び交う会話に突然自分が入り込み、「実は自分は部落出身者である。なぜそんな発言をするのか」と指摘することにどれだけの勇気がいることだろうか。部落解放運動に参加している多くの人の中にも血が逆流し、「指摘するべきか、ここは黙っておく方がいいのではないか」との葛藤を経験した人は数多く存在するだろう。

つまり、部落差別発言の多くは、部落出身者がそこにいないことを前提として成り立っており、そのことを指摘する人がいれば、その場の空気をかえてしまう嫌な奴とのレッテルが貼られるケースも多いのではないか。ましてや、そこで「自分が部落の出身である」と言えば二度と友達として会話が成り立たない関係になるではないか、と危惧する被差別部落出身者がいて当然である。つまりは、「泣き寝入り」や
「自分がそこで黙っていれば時間が解決してくれる」と被差別側が、その責任を受け入れ、黙っていれば時が過ぎると対処しているひとが数多く存在しているのではないだろうか。

当時者が声を上げないからだと批判するひとがいるだろう。抗議の意志を示さないからいけないのだと主張するひともいるだろう。しかし、性暴力については、声も意志も発することが出来ず、「こわい。あきらめ。こんな結果になっているわたしが悪い」と、加害者側の責任を棚上げし、被害者である自分の方に非があると思い込んでいる被害者も数多く存在していることを認識しておく必要があるだろう。

わたしも学生時代には、気の弱そうな男子学生に対して「なよなよするな。女と間違われるぞ」と言ったりしたものだ。相当問題のある発言だといまになって自戒している。まずは客観的な関係をキチンと確認した上で、相手側への配慮ある発言をつねに心得ておくことが重要のようだ。本多議員がその事を理解され、猛省された上で差別と人権政策に奮闘される議員となられることを期待したい。