Vol.202 部落でこそ「コモン」(共有財)の実践を


「アイデンティティとは、後天的に獲得するものだから、知る・学ぶ機会がなければ、意識化されないものだ」と教えてくれたのは、大阪市大の阿久澤麻理子教授だ。

昨今の解放子ども会の活動がほとんどとりくまれていない実態や、親から被差別部落の出身であるというルーツについて聞く機会がほとんどなくなっている現実は、「実態」(主体)が見えない、「主体」からの声が聞こえない希薄化するマイノリティになりつつあるとの問題提起を受けた。

たしかに部落の出身であるということを小中の時代に自らカミングアウトする“立場宣言”や“出身者宣言”は影を潜め、部落問題が大きく後ろに下がり、“人権”という言葉が前面に出てきているのが現状だ。

「誰が部落にルーツを持つ子どもなのか」、「地元の地域においても、どの子がルーツのある子なのか」、わからないケースが目立ってきている。昭和20年代や30年代のように貧困と社会的排除が部落全体を覆っている時代、差別される対象がそこに集中していた時代は、差別そのものがわかりやすい構図として理解されたが、最近では、人口変動などの影響もあり、差別される対象が見えにくくなっており、自分が部落にルーツを持っているという自覚がないままに成人を迎えるケースは少なくない現状もあるだろう。

この現実をわたしは運動の成果の現れだと捉えている。特措法33年や地域側の努力もあって、経済的に恵まれてるとは言い難いが、部落に居住を求めて来住してくるひとたちも多く、地域の絆や助け合いがそんな困窮世帯を引きつける魅力ともなっている。

その結果、大阪の各部落は、昔から住み続ける部落にルーツを持つひとたちに加え、何らかの理由で部落に転入してきたひとたち。さらには、一時的に部落に居住し、永住が目的でないひとたち等、様々な階層が一時的に “雑居”する生活空間としての被差別部落が形成されてきたのである。

運動の成果が「誰が部落の出身者なのか」をわかりにくくした皮肉な一面を持ち合わせているのが現状である。

この“雑居”する大阪の部落の共通点は、やはり他の地域に比べ高い貧困率であり、社会的課題が比較的集中しているという現実にある。これを部落にルーツを持つひとたちを中心にした世直しともいえるまちづくりにチャレンジしようという運動の方向が、ここ最近の大阪における部落解放運動の運動方針である。

REALOSAKAのシンポジウムで講演された京都大学の川端祐一郎助教(あの藤井聡さんの研究室メンバー)は、この大阪の10年を振り返って、「赤字を理由に政府部門を縮小し、民間に新たな既得権を生み出すという典型的な新自由主義政策をとり続け」「表面的に改革した感があるが、公的な財産を特定の業者等に譲り渡しただけで、積極的なものは生み出せていない」と維新政治を表現した。

国や自治体のコスト削減のためには、「民間の方が効率的」であり、「公営ではパフォーマンスが低く」「サービスの質も民間の方が高い」-だから市場原理をさらに加速させ、民にできることは民へとの政治路線が探求された。そのわかりやすい政治動向が、大阪における維新ブームだとこの10年を総括している。

しかし今の新たなトレンドは、「再公営化」だと論じている。現代社会は、介護・教育・環境・景観・エネルギー・高齢者の移動手段など、市場取引に適さない需要の重要性が増す時代であり、公共部門の拡大は、経済の安定性にも貢献すると指摘している。このトレンドと言われる「再公営化」を単に従来の公務員を増やすとの発想での公営化ではなく、公と民をつなぐ市民参加型(市民による民営化)による運営という新たなスタイルを探求してみる可能性があるのではないかと思っている。

とくに隣保館をはじめとする社会的な共通の公的な施設が部落にはあまたと存在していることを考えれば、それを再公営化させて市民による管理・運営という新たな方向が研究されなければならない課題ではないだろうか。

それを斎藤幸平さんのベストセラー『人新世の「資本論」』では、〈コモン〉(共有財)との用語で説明し、人々が暮らしていくのに必要な電気・水道といったインフラから文化までさまざまなものを<コモン>として捉え、市民がもっと自発的に、いろいろなモノやサービスを管理できるようになるための制度や組織を求めている。

企業でもなく国でもない〈コモン〉という民主的なつながりで生産手段を共同管理し、労働や、また資源や財産、それこそお金をも皆で運用し合って共有していく共同体の再建の提案である。部落にこそ実践できそうな課題である。隗より始めようではないか。