Vol.168 許されない文科大臣の「身の丈」発言

萩生田文科大臣の「身の丈」発言。
教育の分野におけて日本が後進国であるということを如実に物語る発言である。まさに“言い得て妙”とは言い過ぎか(笑)

経済の格差が、同時に教育の格差と比例しているということを時の文部科学大臣が認めるという何ともお粗末な発言である。経済格差が広がり一般家庭の生活水準が下がり、子どもが志望大学に落ちても経済的理由から浪人させられないという家庭が急増していると言われている。
そういう状況を無視して文科大臣は、貧乏人が英語民間試験を2回しか受けられなくても当たり前、貧乏人は「身の丈」に合わせればいい、と言い放った問題発言である。撤回・謝罪ということには一応なっているが、見苦しい言い訳の域は出ていない。

教育後進国というレッテルを貼られているという現実は、単純に考えても後10年や20年が経過すると経済的にも文化的にも後進国の仲間入りをすると言うことになるというのは自明の理だ。この現実が理解されているにもかかわらず、教育予算を大幅に拡大させるという方向に政府は舵を切っていない。

OECDの調査によると、加盟国や調査パートナー国における教育機関や教育に関わる人的資源などについての国際比較2018年版で、国内総生産のうち小学校から大学までの教育機関に対する公的支出の割合を見ると、日本は2・9%で比較可能な34か国中で最下位と報告されている。
また、大学入学のうち25歳以上の占める割合は、日本は1・9%とダントツの最下位であり、OECD各国平均18・1%を大きく下回るという結果が報告されている。
つまり、日本の大学は、18歳から20代前半の若者だけが通う学校として扱われており、生涯学習という観点は皆無に等しいという実態である。一人ひとりが生涯にわたって必要な教育を受けることができ、また何歳になっても学ぼうという機会が保障され、それぞれが得た知恵をみんなで出し合うことで社会が良くなる、という考え方が北欧の国々の教育の根本にあるようだ。日本とのギャップは予想以上に大きいことが理解できよう。

教育の現場に競争原理を取り入れ、切磋琢磨して全体の教育水準を向上させるという考え方も現在では、トーンダウンしてきており、競争よりも自己目標達成に力を入れるべきだとする教育論が浮上しているらしい。点数で競争をさせる方法は、点数が低い子どもの自己肯定感を低くさせるという研究結果が報告されており、負けることに慣れてしまい、向上心そのものが低下するというのである。また、勝ち組の方は、それ以上にいじめる側に立ち位置を置き、当たり前に弱者にのしかかっていき、徹底的に陥れるという傾向が強まるとも言われている。
教育は、競争原理で高めていくものではなく、各々にあわせた個別の課題達成のために自己目標を設定し、積み上げていくという方向がのぞましい教育論として近年提唱されている。

親の収入がどうであれ、教育を受ける権利は侵害されることなく、誰もが教育を受けたい時に受けることが出来る教育環境をつくりあげるための予算措置が必要である。経済格差や収入格差によって、教育水準に差が生じることがあってはならない。それを統括する文部科学大臣が、“身の丈”というのだから開いた口が塞がらない。教育こそ家庭という範囲を超え、国・社会こそが率先して進めるべき分野である。

また、若年に主体を置いた教育・学習という現体制を見直し、それこそすべてのひとへの生涯学習が可能となる教育分野の整備が必要である。大学入学者が25歳以上の割合が1・9%という致命的に低い数字が物語っているように、高齢になろうが、幾つになろうが、学びたい時に学べるという機会の提供を本格的に検討していくことが必要であろう。外国人が日本の大学のキャンパスを見て驚くのは、同じような年代のひとしかキャンパスにいないことに驚くと言われている。つまり、海外では大学のキャンパスは年齢的にも国際的にもさまざまな人たちが通っているらしく、日本の大学との価値観の違いが鮮明である。
経済格差と教育は切りはなさなければならない早急なる課題であることを強調したい。