Vol.146 様々な分野で「社会モデル」の考え方を

そもそも、「障がいがある」とは、どのようなことを指しているのか。
外見で判断できる「障がい」もあれば、見た目ではまったくわからない「障がい」をもたれている方もいる。
「障害者差別解消法」では、「障害者」の定義を、「『障害者』とは、障害者手帳をもっている人のことだけではなく、身体障害のある人、知的障害のある人、精神障害のある人(発達障害のある人も含む。)、その他の心や体のはたらきに障害がある人で、障害や社会の中にあるバリアによって、日常生活や社会生活に相当な制限を受けている人すべてが対象(障害児も含まれます)」としている。
つまりは、障がいの原因は社会の側にあり、生活に制限を受けるのであれば、社会の側の障壁を取り除こうという考え方であり、それを「社会モデル」と位置づけている。

一方で、障がい者が味わう社会的不利はそのひと個人の問題だとする考え方を「医学モデル」と呼んでいるらしく、どんなに障がいを持つ人が困っても、責任は障害者個人にあるという考え方だそうだ。そのため、「少しでも障がいを持ったひとが社会参加できるよう、また、身体能力が良くなるように、治療や教育、リハビリなど個人の努力によって対応、克服するべきである」との考え方をいう。
この考え方は、障がいを個人の問題として捉えることを意味している。

例えば、障がいによって社会参加が不利になる原因を求めた場合、医学モデルでは、個人の機能障害や能力障害に原因を求めることになるが、社会モデルで捉えた場合、社会の側の障壁によって排除されているのであり、社会参加の阻害要因は、その障壁にあると捉えるべきということになる。また、障がいへの評価についても、医学モデルの場合、あってはならないものであり、克服すべきものとの解釈になるが、社会モデルの場合、多様な個人の属性のひとつと見なすこととなる。
障がいへの対策については、根絶、予防、保護という考え方が医学モデルであるのに対して、差別禁止、社会的インクルージョンや合理的配慮という対策が社会モデルとなる。つまり、障がいという問題は、狭義の福祉問題であるという捉え方が医学モデルであることに対して、人権問題であるという捉え方が社会モデルということになる。

障がいがあることによって、生きづらいと感じるとき、その解消の責任を、個人に求めるべきなのか、それとも社会に求めるべきなのかの違いのようである。つまり、障害があっていまここで生きづらいなら、どのような方法で生きづらさを解消しようとも、その責任は個人にあるのではなく、社会にあり、そういうことの解決に向けた社会の努力を“社会モデル”と言っているのではないだろうか。
言い換えれば、個人の責任ではなく、社会の責任において、障がい者が抱える生きづらさは解消されるべきものであると高らかに宣言したのが、障害者差別解消法の基本理念だと捉えるべき性格のものだと理解したい。

このように法律の主旨を捉えると、むしろ、生きづらさを抱えるすべての人々の原因は、現在生きている社会にあり、その障壁を取り除く行為こそが、社会モデルだと捉えることが出来ないものか。

フリーのジャーナリストが武装地帯であるシリアでにいったのは、個人の責任だとする自己責任論も、社会に戦争や迫害、対立・分断という緊張した国が存在し、毎日のように多くの人の命が奪われているという事実を現地から正確に伝えるというジャーナリズムの原点ともいうべき社会への責任を果たしているという、考えかたこそが社会モデルではないのか。それを個人の責任であり、国家が守るべき対象ではないと排除する社会は、それこそ障がいそのものの責任は本人にあるという時代遅れの考え方に舞い戻ってしまう事になるのではないだろうか。

「自己責任」も「生産性」も、個人の責任に帰結するいわば「医学モデル」的考え方である。それを社会の仕組みやいままで当たり前とされてきた慣例や習性そのものをマイノリティ側の目線や実態にあわせて転換させ、「バリアフリー」な社会をつくろうとする。その営みこそが、社会モデルに発展させていくことにつながっていくものである。さまざまな分野の社会モデルづくりにチャレンジしようではないか。