Vol.145 日本の人権状況を世界基準で見てみると

日本で地図を見るときは、上が北、下が南、右は東で左が西。このことは小学校の社会科からスタートし私たちの感覚のなかに当たり前のように定着している。
海を渡って東に突き進めばアメリカ大陸がある。太平洋には進路を遮るものは存在しない。また、北を向けば朝鮮半島、中国、ロシアの沿海州がある。ここでも日本との間にあるのは海だけである。これが日本側から見た世界地図である。

しかし、中国を中心にして、逆さに地図を見てみると違って見えてくる。大陸から見える海は極めて狭く、すぐ近くには日本列島がある。その南には九州から奄美諸島、沖縄、八重山と南西諸島が連なっており、台湾につながっている。台湾からはバシー海峡を挟んでフィリピンへと続き、その端はベトナムへと繋がっている。

こうして見ると、中国にとって自由に動ける海はごく限られており、広い海へ出て行こうとすれば、先に挙げた島々の間を縫って行かざるをえない。中国の船の動向は、それらの島を領有している国々から絶えず監視されているように見えるものであり、各国との対立が激化するようなことがあれば、海上封鎖で封じ込められてしまう可能性もあり得るように見えてくる。
朝鮮半島や中国が、海洋に進出しようとすればするほど、日本列島が実に目障りに見えるというのは言い過ぎだろうか。

逆さに見たり、発想を逆転させてみれば、まるで違った現実が映し出されるという体験は誰もが一度や二度は経験したことがあるだろう。
わたしたちは、日本の国会での障害者差別解消法から始まった、いわゆる「差別解消3法」に一喜一憂し、その具体化を求めて国内運動を展開しているが、国連や世界各国という側から見てみれば、日本の人権レベルが如何にも低レベルであり、日本政府が不誠実な対応をとり続けているのかが見えてくる。

最大の違いは、人権論だ。世界の人権論と日本の人権論とでは大きな違いが存在する。世界の人権論は、すべてのひとは例外なく社会の構成員として処遇されるとの立場をとり、かつて例外としたマイノリティへの差別・排除・人権侵害の事実を認め、謝罪し賠償する。この過程を通してマイノリティは個人の尊厳を回復するという考え方だ。

一方、日本の人権論は、すべてのひとの人権とは規定しているものの、人権には例外があり、例外として排除されてる現実が現在進行形でいまだに存続・継承されている。
かつてマイノリティを排除し人権侵害にさらしてきたが、それは合理的に必要であったものであり、国家の制度や政策に誤りがあったわけではなく、従って、マイノリティへの人権侵害の事実はないのだというのが日本の人権論である。

誤りは認めず、謝罪せず、賠償しない。マイノリティとして侵害された個人の尊厳の回復は行わない。旧優生保護法も北海道旧土人保護法、同和対策における一連の特別措置法もその時代では必要な法律であり、誤りがあったわけではなく、時代とともに変化していっただけ。この人権論は、第二次世界大戦前の「例外をつくり排除する」という人権論であることは明らかであり、真の反省の上に立って、人権政策を進めるという立場に日本政府はないことを意味している。

国連の人種差別撤廃委員会においても部落問題の取り扱いを巡り各国から日本政府に多くの疑問が投げかけられ、厳しい指摘を受けている。その勧告では、「部落民との真摯な協議によって部落民の定義を明確にし、部落民、被差別部落の呼び名を統一して問題の解決にあたるべき」だとの指摘や「部落民の生活状況がいかなるものであったのか統計的数値を含めた情報提供を求める」と言った意見。さらには「部落問題を総合調整する責任部署は設置されないままである」と厳しく指摘されている。

ここに紹介したものはほんの一部であり、わたしたちが主張している内容をさらに具体化した勧告が政府に突きつけられている。わたしたちのとりくんでいる部落解放運動は、国内においては、厳しい冬の時代を想起させる現実が存在しているが、国際的な舞台では、わたしたちの主張に近い、いやそれ以上の人権の国際基準が日本政府に突きつけられているのである。たまには、逆さで物事を見てみることが必要なようだ。