Vol.108 上田卓三元委員長の13回忌に思う

今年1月、大阪府連の副委員長をはじめ、企業連など関連団体の要職を歴任された山口公男さん(松原支部)が85歳で他界された。さらに、2月には、大阪府連の書記長、副委員長、中央執行委員をはじめ、リバティおおさかの館長なども務められた向井正さん(日之出支部)が78歳で亡くなられた。

山口副委員長、向井書記長が府連3役に初選出されたのは1975年6月にひらかれた第22回府連大会。その2年前の第21回府連大会では上田卓三委員長が誕生している。

本年は、その上田卓三元委員長が亡くなられて13回忌を迎える年である。

上田卓三委員長、向井正書記長の体制が1975年にスタートし、ここから文字通り大阪の部落解放運動は飛躍的に発展していく。質・量ともに大阪における民主運動の一大勢力となり、政治的影響力をはじめとするさまざまな分野で部落解放運動が高揚期を迎えていく。

その大きなきっかけとなったのは、1974年に闘われた参議院選挙である。
当時の社会党から上田卓三元委員長が36歳の若さで初挑戦し、70万票近い票を獲得したものの惜敗した。
全国で最高得票での落選だっただけに落胆はしたものの、次への確かな期待と希望が部落解放運動の中に確信となって生まれた。「差別からの解放を他者に求めるだけではなく、自分たちできり拓いてこそ価値がある」とばかりに、政治家・上田卓三を誕生させることが、大阪における部落解放運動の果敢な挑戦となり、その後の運動の方向が指し示された瞬間ともいえるだろう。

亡くなられた故土井たか子さんが、上田元委員長の葬儀の際の弔辞で次のように語られている。少し長くなるが引用する。

1974年7月7日の参議院選挙、その参院選の真っ最中、大阪梅田の駅前で作家の小田実さんと街頭演説をされている姿でした。街頭を埋めつくす人びと。卓三さんは、凛々しく“若武者”のようでした。その演説は、びんびんと響き渡って、雄叫びのようでした。『この世から差別をなくそう。そのためには僕と一緒に闘って下さい。平等な社会を一緒に創っていこうじゃありませんか』と血の出るような叫びに呼応して、部落解放同盟のシンボルである荊冠旗がはためき、駅前のできたばかりの歩道橋にまで人が溢れ、どよめきと共に揺れるのを見て、今にも押し出された人が降ってくるのではないかとハラハラしながら昂奮していました。『すごいなぁ、こういう人が国会に出てきたら本当に世の中変わるなぁ』と感嘆し、わくわくしたのを昨日のことのようになつかしく想い出します。この初選挙は70万票近い票をとっての惜敗、全国で最高得票であっただけに本当に口惜しく残念で仕方ありませんでした。でも、めげることなく頑張って1976年の総選挙に38才の若さで大阪4区で出馬、初当選。以降6期当選はさすが卓三さんならではの快挙だったのです

この上田委員長の片腕として、また上田委員長が国会議員でもあったため日常の即座の判断を担う書記長職として向井元書記長があった。冷静沈着に、しかし信念は決して曲げず、真面目にコツコツと大阪の民主運動や労働運動との連携を強化され、組織の拡大強化に努められたことは特筆すべきことであり、文字通り今日の部落解放運動の礎を築かれた。

当時、青年部の役員であった私は、向井書記長に日常の活動の説明などをするわけであるが、このひとの前では、なぜか下手くそで肝心なことを説明できない自分に何度も情けない思いをした。凛とした向井書記長の前では、常に緊張感があり自分の不甲斐なさを見透かされているかのような存在感を前に、ただただ恐縮していた場面が昨日のことのように思い浮かぶ。

上田卓三元委員長の特筆すべき党派を超えた人脈や、中企連活動やいのくら活動で発揮した部落解放運動の領域を拡大させた功績。また、部落解放同盟という組織の泥臭いイメージを一掃し、真面目に差別撤廃・人権確立を大阪の地で実践され多大な成果を上げることとなった向井正元書記長の手腕。さらには、大企連組織を軌道にのせ、中小企業の強力な支援・育成団体として存在感を増すこととなった大企連活動の礎をささえた山口公男元副委員長。

それぞれ運動の第一線から身を引かれ、そして故人となられた。大先輩から“よくぞここまで頑張った”といわれる部落解放運動に、「勇往邁進(ゆうおうまいしん)」(恐れることなく、部落解放という目標に向かって、ひたすら前進)することを誓う。合掌