くりはら、柳本両候補の勝利で維新政治に終止符を

水平時評 府連書記長 赤井隆史

いよいよ維新政治への審判の時が迫ってきた。

社会学者の上野千鶴子・東大名誉教授は、昨今の政治状況を、「立憲主義の危機だけではない」と強く語られており、続いて「知性の危機、学問の危機、大学の危機だ」と訴えられている。そこで、話題なのが、「反知性主義」という言葉である。
「白黒をはっきりつける」「勝ち負けを明々白々に」-つまり、生贄(いけにえ)を求める社会、言論を封殺する世の中であり、社会全体を思考停止にむかわせる社会を“反知性主義”に毒されている社会だと言われているようである。

言論が弾圧される社会とは、とつぜん憲兵がやってきて、言論の自由を掲げる闘志を逮捕したり、監禁したりというイメージが強いが、実際は違っている。公安や警察が直接手を出すということではなく、自主規制が基本となって言論が自殺幇助(自殺の実行を援助して容易にする行為)のように段階を踏んで弾圧されていくと言うのだ。
つまり、このテーマを書くと「読者から抗議ハガキが殺到するよ」っと言われたり、作家であれば、「編集長がいい顔しないよ」と外側からやんわりと圧力がかかって結局は、そのテーマに触れず、さわらずとする社会が登場してしまうと言うのである。

安倍政権は、1億総活躍社会と銘打って、個人の利益よりも公共の利益を押しだそうとしている。1億総活躍という言葉の「活躍」に力を入れているのではなくて、むしろ「総」に力点が置かれているのだ。1億人が一塊(ひとかたまり)になるべきだという思想そのものである。「日本を取り戻す」というスローガンにも同じような思想が底辺に流れていることは言うまでもないだろう。戦後民主主義は人間が個人として尊重されるべきであり、それが憲法の基本ベースに謳われている。そうした考え方は、日本の伝統を分断する悪い考え方で、集団を守るためには個人が犠牲になることなどお構いなしという社会である。

ユネスコの記憶遺産に南京大虐殺が登録されると知るや、即座に菅官房長官は、分担金を見直す・減額することを示唆したことはご存じであろう。虐殺そのものの数についての議論はあってしかるべきだが、虐殺の事実そのものを否定したり、分担金を大幅に削減してユネスコに圧力をかけることはまったくの別次元の問題である。一昔前であれば、大問題となった官房長官発言であるが、日本の国民意識に、「南京大虐殺を記憶遺産に登録を認めたユネスコはけしからん」とする空気感が漂っているからこそ、菅官房長官が発言し、自民党の若手議員が応援するという事態に発展しているのだと思う。

こうした社会は、「みんなと違う意見を言う人は“黙れ”」と個人の尊厳が否定される社会となっていくように思う。8年前に政治の舞台に登場した橋下氏がそうだ。議論をいっさい無視した「多数決至上主義」で、真実や正論がすべて踏みにじられ、橋下氏の意見や考え方のみが正しいと正当化される全体主義のことだ。その時々の敵を見いだし、徹底的に叩きのめす、いわゆる「維新にあらずんば人にあらず」と平家物語さながらに錯覚するような政治劇場に、そろそろ終止符を撃ち、退場願おうではないか。

個々人の知性が否定される社会は、危険である。考えない政治は逆に楽でもあるからだ。みんなが「橋下さんの改革を応援してるから」「既成の政党や政治家では、この暮らしは良くならない」といった短絡的な思いで、11月22日の知事選挙、大阪市長選挙を判断してはならない。
反知性主義が跋扈(ばっこ)し、自由にものの言えない社会や、多数の利益を擁護するためには、ひとりの生贄(いけにえ)はやむを得ないとする世の中にしてはならない。

もう一度繰り返す。言論の自由は、とつぜん憲兵がやって来て弾圧してくるという社会ではない。自由に意見が言えない空気が漂う社会に知らないままに蔓延してしまうという言うことだ。ヘイトスピーチの登場や公然と在日コリアンは採用しないと言ってのける経営者が登場し始めている。言論弾圧や人権の抑制は、権力が全面に出ばって始まるのではない。気がつけば隣の民衆から始まっているという社会なのだ。
みなさんに訴える。いまこそ、反維新の勢力をさらに拡大させ、大阪府知事選挙には、栗原さんを。大阪市長選挙には柳本さんの勝利をめざすことが最優先の課題である。