時代の風を敏感に感じ取り、着実な前進をー年頭にあたって 府連委員長 北口末広

時代が急速に変化している。政府与党は多数の市民の反対を押し切って、多くの問題を抱える特定秘密保護法を強行可決した。政治が人権・平和と逆方向に進んでいると指摘せざるを得ない。
1985年、ドイツ連邦議会でヴァイツゼッカー大統領は、ナチス時代の「過去への反省」を明確にするために歴史的な演説を行い、その中で「過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在にも目を閉ざすことになります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」とのべている。私たちも政治家もこの演説に真摯に学ぶべきときである。

民衆の不満からナチス躍進

ドイツは第一次世界大戦で敗北し、ベルサイユ条約によって多額の賠償金を課せられた後、1919年にドイツ国新憲法いわゆるワイマール憲法を制定した。
当時、ワイマール憲法は最も民主的な憲法といわれたが、その体制は14年間しか持たず、1933年にナチスが政権を取って終わりを告げた。
とりわけ1929年10月のアメリカ合衆国発世界大恐慌はドイツ経済を壊滅状態に陥れ、ワイマール体制は雪崩のように崩壊していった。経済的苦境で生活苦に追い込まれた民衆の不満・閉塞感がナチス躍進の大きな原動力になった。
その前後でナチスの総選挙における得票数は大きく変化した。恐慌前の1928年5月総選挙では、150万票(得票率5%)しか得票できず、12議席(第8党)に終わった。しかし世界大恐慌後の1930年9月総選挙では、得票640万票(得票率18%)で107議席(第2党)を獲得し大躍進した。1932年7月総選挙では 得票1375万万票(得票率37%)で230議席(第1党)になった。

民主的選挙を経た独裁体制

その後、1933年1月にヒトラー首相が誕生し、同年3月23日に議会の同意なしに予算制定権や条約締結権等をヒトラーに与える全権付与法が成立した。同年5月には全ての労働組合が解散させられ、政党関係にも同様の措置が取られた。そして一党独裁体制が確立した。紛れもなく民主的な選挙を経てワイマール体制が崩壊し、ナチス独裁体制が敷かれた。そして1939年、ポーランド侵略を開始し第二次世界大戦の火ぶたが切られた。
当時のドイツ国民のヒトラーやナチスに対するイメージは、今日の私たちが持っている「独裁」「侵略」「大量虐殺」といったイメージとはかなり異なったものだった。早くからナチスの本質を見抜いていた人々も少なからず存在していたが、多数派を形成することはできなかった。
また当時のナチスは強固な党組織も築き上げていった。1932年には100万人を突破するといった驚異的な伸びを示した。その構成員も多様な階層を結集し、他党に比較して若者の比率も高く、活動的なイメージが大きく広がった。
以上のような驚異的な国民的支持の拡大をもたらしたのは、デマ宣伝を含むナチスによるプロパガンダ(政治宣伝)の巧みさだけではない。どの国でも条件が整えば起こり得ることだ。
ナチス時代と今日では国際情勢も歴史的状況も大きく異なるが、今一度、ヴァイツゼッカー大統領の演説を心に刻む時代状況だといえる。

社会を平和・人権の方向に

今日、平和・人権を推進する私たちにとって、厳しい時代である。しかし社会を平和・人権の方向に変革させることは常に可能だ。ロック・クライミング(岩登り)では単なる岩の凹凸が「足がかり」「手がかり」になるように、社会には部落解放運動をはじめとする差別撤廃・人権確立運動にとって、「足がかり」「手がかり」になるのものは数多く存在する。ヨットは逆風であろうが、自身の位置と目標が明確であれば、その風を活用して斜めに進みながらも目標に近づくことができる。
そのためにも時代の変化に的確に対応をしなければならない。それができなければ大きな代償を払うことになる。重要な点はその変化のペースを認識できているのかという点である。強い組織よりも時代の変化に適応できた組織が生き残るといわれる。
本年も部落差別撤廃、人権・平和の確立という原則性を堅持しつつ、時代の変化に柔軟に対応した部落解放運動を前進させるために、多くの関係組織とともに取り組んでいかなければならない。以上のことを強調し、「念頭にあたって」のご挨拶とさせていただきたい。