歴史と伝統を「守る」と「発展させる」の間に

家のテレビがNHKの番組を映し出していた。
 出演していたのは、笑福亭仁鶴さんだ。再放送のようだが、「大阪の笑い100年」というタイトルで、笑いの先人たちゆかりの寺院や碑、演芸の史跡を訪ね、紹介するという番組だ。また、仁鶴さんが先輩たちから受け継いだものを後の世代にどのように引き継いでいるかを描きながら、大阪100年の笑いの歴史を振り返る。昔懐かしい笑いの達人たちに触れながら、大阪、そして日本の世相の移り変わりと笑いの文化の歴史を紹介している。

懐かしい映像がつぎからつぎへと映し出されている。伝説の漫才コンビ横山エンタツ・花菱アチャコの漫才映像をはじめ、中田ダイマル・ラケット、芦乃家雁玉・林田十郎などの映像が紹介されている。初代漫才ブームともいうべき熱気が寄席の会場から伝わってきている。この華やかな一方で、上方落語界存亡の危機が伝えられている。寄席の客足が鈍い。それどころではなく、次の世代の落語家のなり手が集まらない。弟子が集まらないという時代であったようだ。

 そんな時に登場するのが、笑福亭仁鶴さんだ。深夜のラジオ番組でパーソナリティを任され、一躍スターとなる。静かに語りかける当時のラジオの方式を根底から覆し、冒頭から「ごきげんよう!ごきげんよう!」とがなり立てる表現方法がウケにうけた。大人気となり、当時仁鶴さんは「視聴率を5%上げる男」との異名をとる。当時のテレビ関係者は、仁鶴さんをキャスティングすることに奔走したというエピソードまであるらしい。

しかし、当時の上方落語は伝統と格式が重んじられる時代であり、笑福亭仁鶴さんのラジオ番組出演には賛否がわかれ「落語家が深夜のラジオ番組出演などもってのほか」といった根強い反対論もあったようだ。当時を振り返り仁鶴さんが、「先輩たちはジェントルマンなんですな。紳士ですな」とさらっと受け流している。

 当時の時代背景は、間違いなく漫才が主流をしめ、落語が伝統を守り細々とその灯を消さないために高座を守り抜くというスタイルであり、テレビやラジオに落語家が出演するときも着物で座布団に座り、落語の演目をこなす姿がブラウン管に映し出された時代である。

その時代にラフなスタイルで、「ごきげんよう!ごきげんよう!」とがなり立てる落語家の登場は、落語の伝統と格式からは当時考えられないスタイルであったはずである。

「今日の吉本の基礎は仁鶴が作った」とまで言われ、吉本の総帥といわれた林正之助氏でさえ、仁鶴さんには頭が上がらなかったといわれる。初代桂春團治さんなどの大物芸人ですら呼び捨てにしていた正之助氏が仁鶴さんだけは「さん」付けで呼んでいたとのエピソードもあるほどだ。

寄席の数が減り、落語家を志願する弟子も少なくなってくる。一方では漫才界に活気があり、熱を帯びている。この時代に笑福亭仁鶴さんが登場し、従来のスタイルを一変させ、落語界に新風を吹き込んだことは間違いのない事実のようだ。それを「先輩たちはジェントルマンなんですな。紳士ですな」と批判することなく、歴史を継承し、いまを活かされていることに感謝の気持ちを持ち続ける穏和で重厚な口調に感心させられた方々も多いのではないだろうか。

歴史と伝統を守り、発展させるということは、先輩からの教えを守り抜くことだけではないだろう。しかし、先達の労苦はしっかりと受け継ぐことが必要なんだろうと教えられた。

ある人がわたしに語りかけた。「最近元気のある支部の共通点を知っていますか?」との問いだ。わたしは、「わかりません。教えてください」と答えた。そうすると答えは、「中央本部や大阪府連の方針に書いていないことをしてるから元気なんです」と教えてくれた。方針書の一言一句を真似る時代ではない。その志を自らの地域に引き寄せる知恵がある支部が元気だと教えてくれたような気がする。新たな部落解放運動といわれて久しい時代だ。解放運動も仁鶴さんのように“型破り”がキーワードのようだ(A)。