桑田投手のインタビューから考える

NHKのニュースウェブに元プロ野球選手の桑田真澄さんが今問題となっている「体罰」について語った次のようなインタビューが掲載されていた。

Q:体罰を生む背景は?

桑田:勝利ですね。「チームが勝ちたい」「自分が勝ちたい」ということですね。例えばチーム内であれば、自分がレギュラーになるために後輩をつぶしていかないと自分がレギュラーになれないとか、指導者は優勝しないと周りに対しての示しがつかないとか、首になるとかですね、勝利至上主義になってしまっているということですね。本来、誰もが、子どもを育てる、選手を育てるという育成を目的にしているのにもかかわらず、実際にスポーツの現場で行われているのは勝利至上主義ですよね。僕はプロ野球は勝利至上主義でいいと思っているんです。でも、アマチュアは勝利至上主義よりも人材育成主義、育成主義ではないとダメだと思っています。

Q:体罰をなくすためには

桑田:僕は体罰を受けたからといって、その人を恨んでいるかと言ったら、全く恨んでいないです。なぜかというと、その時代はそれが当たり前だったんですね。みんなが、それが正解だと思っていた時代なんですよ。当然、運動中には水を飲んではいけない時代でしたけど、今は水を飲みなさいという時代です。まったく反対ですよね。僕の時代、水を飲んだらばてるし、上手くならないと言われていたんですよね。ところが、今は15分か20分おきに水分を補給しなさいと言われる時代です。じゃあ、僕たちのあの時代は何だったのかと。それはスポーツ医科学がまだまだ解明されていなくて、その時代はそれが正解だったんですね。指導方法も体罰は当たり前の時代だったんです。でも今は時代が違うということです。いろんなことが解明されてきて、指導するに当たってもビデオを使ったり、いろんな角度から指導できるわけじゃないですか。ですから指導方法も変わっていかないといけない。時代にあわせて指導方法も変えていかないといけないということを、みんなで共有して取り組んでいかないといけない時期に来ていると僕は思います。

「体罰は自立を妨げ成長の芽摘む」というのが桑田さんの考え方のようだ。今回はこのコラムで取り上げたいのは体罰の是非ではない。このコラムの筆者も桑田さんとまではいかないが、野球少年であった。桑田さん同様、「水を飲むな」「プールにはいるな。肩を冷やす!」という世代である。
夏のプール授業は見学であり、それが学校でも認められていた。それで、夏の体育の成績はあまり覚えていないが、免除されていたのか。おとがめを受けた経験はない。これも当時の指導方法に違いない。野球部で、とくに投手担当の生徒は、プール授業に参加させなくても良い。といったことが学校の指導カリキュラムに掲載されていたのだろうか。学校ごとの慣習として判断されていたのだろうか。

筆者も当時、それを信じて夏のプール授業は見学していた。寝るときも“肩当て”という母につくってもらったお手製(セーターを切って作ったのかなぁ:曖昧な記憶?)のモノを身につけ、暑い夏も欠かさず、着用していたことをこのインタビューを読みながら思い出した。
プールでの水泳授業を受けられなかったことは、学校全体の方針に基づくある意味“体罰”ではなかったのか。桑田さんの言うように時代が変われば、指導方法も変わっていかなければならないことは当然だと思う。しかし、問題が起こらなければわからないというのが人間の悲しい性か。一人の尊い命が失われた。その代償に体罰の是非が問われていることを、わたしたちは嘆くべきではないだろうか。

アメリカのロケット開発で有名なR.H.ゴダード博士が語った「昨日の夢は今日の希望であり、明日の現実である。」という言葉がある。時代がめまぐるしい変化を遂げているなかで、毎年同じことを繰り返していては、立ち止まっていることですらなく、後退していることにもなりかねない。「忙しい(毎年同じような仕事に振り回されている)怠け者」にはなりたくない。保守化傾向をお互い、戒めたいものだ。(A)