Vol.249 4・9 「分断」から「包摂」の政治へアップデートを

2020年のアメリカ大統領選挙で当選が決まったバイデン氏の演説を紹介したい。

    「アメリカは民主主義の社会ですから、国民の間に意見の対立や批判があってもいい。それが当たり前であり、むしろ健全なのです。しっかり議論し意見を闘わせることで民主主義は機能し、正義が生きてきます。民主主義を止めようとする力を私は許しません。私に賛成する人も反対する人も等しく扱う。それが私の責任なのです」

短い演説に、対立する人々も異論を持つ人々もすべて包摂して民主主義を守ろうとする決意を感じさせる演説である。

どうもいま国会で繰り広げられている放送法をめぐっての議論の根底に、メディアを恫喝で黙らせる為政者の存在が浮き彫りとなり、権威を使って、表現の自由に制限を持ち込もうとする権力側の意図が見て取れる構図が浮上してきている。

「民主主義は意見の対立があってこそ健全」であり、放送法についても政治的に公平であることは当然である。また、従来は「放送事業者の番組全体をみて判断する」という解釈であったが、2015年の国会で「一つの番組のみでも判断することがある」という新解釈を述べたことにより情勢が一変した。

「目障りな番組は根絶する」という政権側の意図か、「政権にすり寄らざるを得なくなった」マスコミ側の忖度か。いずれにせよ、マスコミ側は一斉に萎縮し、政権に抗うことなく“右へならえ”という態度に終始するという結果となった。

大阪府の知事も大阪市長も一昔前は、オール与党vs共産党という構図が続いた。それに当時は、「護送船団方式」だとか、「既得権益擁護派」というレッテルが貼られ、反対する勢力として登場したのが、大阪維新の会でもある。あれから12年が経過した。大きな船の船長は、一党一派に属して党派制を発揮すべきなのか。それよりは、意見の対立も包摂する多様な意見に耳を傾ける首長が望ましいのか。問われるべき選挙が4月9日に投開票されることとなった。

「護送船団」といわれた当時の大阪府知事選挙や大阪市長選挙を振り返れば、それこそ華やかしき時代の“まつりごと”にふさわしい豪華絢爛?を思わせるような選挙戦だった。選挙事務所は、大阪のど真ん中といっていい大阪駅南側に2階建てのプレハブで建てられ、自民党、社会党、公明党などの主要政党の部屋がそれぞれ配備され、労働組合や各種市民団体(解放同盟は確かここに?)の部屋が割り当てられるという豪華さだ。

受付には、女性が複数で待機しており、それぞれ関係者の部屋に通されるというそれこそオフィスビルを彷彿とさせる選対である。電話も受付で一本化されており、「♪解放同盟の赤井さん。○○さんから何番にお電話です。♪」といった調子である。相手は、対共産党のみであることから勝敗よりは、どれぐらい引き離して勝利するかが、ポイントであり、そしてどの団体がどれほどの貢献をしたのかをこれ見よがしに見せつける場が、知事選挙であり、大阪市長選挙であったような記憶である。たしかにこれで勝利した知事も大阪市長も世話になった団体との関係において、多少の忖度がはたらくのも想像に難くないようである。

「身を切る改革」を訴え、「寄り合い所帯」批判で、登場したのが大阪維新の会だ。オール与党vs共産党との選挙を暗黒の時代のように批判し、あの時代に戻してはならないとのわかりやすいフレーズで、改革こそが、維新であるとの訴えを続け、大阪ではいまのところ敵なしの現状だ。このままでは、大阪府会も大阪市会も過半数が維新の会となり、それぞれトップも維新の会公認の首長誕生という時代が到来する。

対立する人々も異論を持つ人々もすべて包摂して民主主義を守ろうとする選択肢はないものか。一強がもたらす功罪も十数年が経過したいま、新たな選択肢が提案されて然りではないだろうか。対維新ではない。いまの大阪をバージョンアップさせると言うことを目的にアップデートおおさかを発足させ、もうひとつの選択肢を提供しようと試みた。しかし、時間が制限されており、なかなか大阪全体への広がりが弱い。

もう一度繰り返すが、大切なのは「批判があってこそ社会は健全である」という民主主義の基本理念を再確認することである。民主主義の基本は多数決であることから、選挙で過半数を獲得すれば、その党派の言うがままでは、少数意見の排除となる。対立も異論も包摂する優しさと包容力のある政治にアップデートさせることが大阪の選挙にとって重要な選択の時である。4.9は選挙へ行こう!