Vol.174 「革命未だ成らず」 浅香支部・塩根さんの早すぎる旅立ちに思う

中国の政治家であり、中国革命の父と言われた孫文の残した言葉に「革命未だ成らず」という言葉がある。
まさか、その言葉を葬儀での親族の最後の挨拶で聞くとは思わなかった。
その葬儀とは浅香支部の塩根仁さんが亡くなられ、ご長男さんがその締めくくりに述べられた言葉である。
本当にお世話になった人物であり、家族葬ともいえるごく少人数の葬儀というのも塩根さんらしいしつらえだと思った。66歳とはなんとも早い旅立ちである。支部書記長の住吉君から連絡をもらった。
「ごく内輪の葬儀なんですが、委員長には連絡を入れさせてもらいました」と心遣いをいただいた。
その葬儀に参列させてもらい最後のご長男の言葉が「革命未だ成らず」だった。
つまりは、「部落の解放未だ成らず」と志半ばで息絶えた親父さんを送る言葉だった。あまりにもまっすぐな言葉であり、直線的な叫びに心が震える自分がいた。

親父の塩根さんもそれは真面目でまっすぐな性格の持ち主であり、真面目がゆえに多少ぶつかることも多かったようだ。いまは亡き義彦さんもよくぼやいておられた事を思い出す。
正義感と責任感のかたまりのひとは、沖縄問題にも深い思い入れを持たれ、2018年の1月には沖縄反戦ツアーを府連として実施、そのガイドも含め責任者として陣頭指揮を執ってもらった。
わたしもそのツアーに参加したひとりだ。
バスでの視察の中、塩根さんは、「沖縄は、第二次世界大戦で日本の中において、唯一地上戦が繰り広げられた所だ」と力説し、「ホントに多くの女性や子どもたちが犠牲になった地域なんだ」と説明された。その象徴ともいえる場所が、読谷村にある鍾乳洞(ガマ)、チビチリガマであり、1945年沖縄戦で集団自決が行われた場所を訪問した。「集団自決と言われるが、この行為は強制集団死である」と塩根さんは繰り返し強調されていた事を昨日のことのように思い出される。

同級生だった森田さんも先に逝かれた。先輩の幹夫さんも。そして浅香の運動の羅針盤でもあった義彦さんも亡くなられた。仲が良いからと追いかけたわけではないだろうが、塩根さんまで旅立たれた。
あまりにも無念であり、早すぎる死だ・・・どれほどありがとうを連呼してもまた酒を酌み交わすこともできないし、屈託のない笑顔を見ることもない。
浪速の浅居さんから「委員長、顔見たって、痩せて痩せて」と言われた。棺の中の塩根さんは、それはそれは痩せて小さかった。最後まで病と闘い続け、それでもなんとか復活したいと頑張られた姿だった。そして、笑っているようにわたしには思えた。

口幅ったい言い方になって恐縮だが、生前塩根さんは、浪速の浅居さんのことを常に心配され、「彼(浅居さん)はあの大きな“ムラ”でよう頑張ってる」「委員長、ちゃんと見たってや、守ったってや」と繰り返し強調されていた。浅居さんも「アニキ、アニキ」と塩根さんを慕っていた。わたしたちの世代の兄貴分としてずいぶんと世話になり、応援してもらったもんだ。

その息子さんが、「『部落の解放未だ成らず』。この無念さは次の世代のひとたちと引き取って進めていきたい。だから自分も頑張っていく」と宣言された。率直に言って驚きの発言であり、ひさしぶりのカミングアウトとも言える言葉である。
塩根さん親子に、「そこまで責任持って部落解放運動を引っ張らんかい」「未だ道半ばどころか、後退してないか」と“ガツン”と頭をハンマーでたたかれたようである。

地下鉄の車庫があることで、部落と部落外とが分断された地域浅香地区。そこでまちづくりを発信され、部落と部落外との垣根を取っ払う運動に塩根さんも先頭に立って頑張られていた。結婚差別やさまざまな理不尽な差別にいつも前のめりになって、真剣に怒りを持って向き合う姿勢に感銘を受けたものだ。わたしのことを気にとめてもらい応援してもらったり、励ましてもらったり、支えていただいた。
その声をもう聞くことはない。しかし、塩根さんや義彦さん。森田さんや幹夫さんが大事にしてこられた浅香のまちづくりや教育を中心とした運動は、次の世代に間違いなく引き継がれている。
おつかれさんでした。そして、ありがとう!