Vol.106 忖度(そんたく)の本来の意味とこれからの運動

今年の流行語大賞候補にノミネートされることが間違いないと騒がれているのは、みなさんご存じの“忖度(そんたく)”である。

この「忖度」という言葉に対して、大阪府の松井一郎知事(というより日本維新の会代表と言った方が良いのか?)が、3月25日の記者会見で、森友学園問題に関して「安倍晋三首相が『忖度はない』と強弁し続けるから(火に)油を注ぐことになる。あったと認め『いい忖度とやってはいけない忖度がある』とはっきり言うべきだ」と語ったと報道されている。そもそも忖度という言葉自体の意味は、「人の心を推しはかる」という意味であるからして、良い“忖度”も悪い“忖度”もないのだが・・・

松井知事は、続けて「政治家は有権者の意思を忖度して仕事をしている。ただし、一部の人たちだけがお金をもらったり、いい思いをしたりする忖度をやってはいけない」と発言している。まさにそれこそが正しい指摘であり、政治家は有権者の夢や希望を忖度して仕事すべきものであり、権力者や一部の実力者の思惑を忖度してはならないことはいうまでもない。

しかし、最近とりあげられている話しの中で、教科書検定をめぐって、担当する文部科学省の役人が、教材に登場する「パン屋」という表現に対して、洋風であり不適切だと指摘し、「和菓子屋」の方が郷土愛を育てると訂正したという話しが、紹介されている。

また、パン屋だけではなく、・・・アスレチックの遊具で遊ぶ公園という文言を、和楽器を売る店に差し替えるという始末である。

これこそ、官僚による教育勅語を園児に斉唱させる幼稚園を礼賛している安倍内閣(または夫妻?)への忖度とは言えないだろうか。

わたしたちは、いまどこを向いて、どこに向かおうとしているのだろうか。

安倍内閣におべっかを使い、権力にへつらうことがこの世に生を受け、80年あまりの人生を謳歌する。これが官僚たる人生設計なんだろうか。マスコミも同様で、右向け右という方向で、権力から歓迎される記事やニュースを垂れ流しておけば、ジャーナリストとしての仕事をまっとうしていることになるのだろうか。わたしたち部落解放運動も、与えられた職場で与えられた任務を遂行し、上司に忠実で決まった仕事だけとりくんでいれば、安いなりにも給料をいただき、それで満足な人生だと胸を張って、次の世代に誇らしげに語れるのだろうか。

「必死で働き、必死に生活する」他人になんか頼っていられない社会。冷たい社会がこの世を覆っている。そして、すべての責任を、自己責任で貫徹せよと社会はわたしたちを追い詰めていく。

自己責任ではなく、みんなで分かち合おう、困っているヒトがいたら手を差しのべようという社会。貧しい人だけでなくあらゆる人の生活を保障していく。そんな部落解放運動を創造するためには、人に優しく、ひとをいたわり、なにごとにも寛容な態度が必要だ。

人間同士が分断され、生きることが苦痛と感じるような部落を子どもたちに絶対に残すわけにはいかない。相談するところがまだあって、地域がなんとなくわたしのことを気にしてくれてるという期待感が、暮らしのアンケート調査結果から伺える。やっぱり各部落は捨てたものではない。あたたかくひとには優しい部落であり、そんな良さをもっともっと広め、仕組みとしてつくりあげる時がいまなのかも知れない。

多くの欠点を持ち、課題を持つ人たちが被差別部落に多く住んでいる。わたしたちも完全ではなく、多くの課題を有している。しかし、その欠点や課題を針小棒大にとりあげ良いところを見てあげないという部落解放運動をこの大阪の地で推進させるわけにはいかないのであり、多少の欠点や課題を補う優しさやユニークさをもったひとたちの集まりが大阪の部落解放運動だ。寛容さを持ちつながりあおうという思いの結集が大阪府連である。そのための団結を呼びかける。決して分裂や分断を繰り返してはならない。寛容さを持った部落解放運動の前進を訴える。