広がる閉塞感 明日への希望託せる社会に

水平時評 府連書記長 赤井隆史

さいたま市で7月下旬、盲導犬が鋭利な刃物のようなもので刺されるという悲惨な事件が発覚した。ケガをしたのは盲導犬のラブラドルレトリバー。県警によると、右の腰付近を先のとがったもので数カ所刺されており、器物損壊容疑で捜査している。

また、9月8日にも、午前8時ごろ、白杖を使いながら通学していた女子生徒が、JR川越駅構内の点字ブロックを歩いていたところ、前方から歩いてきた人物に白杖がぶつかった。その人物が転倒、すぐに立ち上がったところ、女子生徒に対して、背後から右膝の裏を蹴りあげるという事件が発生した。女子生徒は右膝に3週間のけがを負った。自分が転倒した腹いせに、女子生徒を蹴るという許し難い暴力行為である。

さらに、今年5月には、修学旅行で長崎市を訪れていた横浜市立中3年の生徒が、長崎原爆の爆心地近くを案内した被爆者の森口さんに対して、「死に損ない」などの暴言を吐いていたという事件が発覚している。森口さんは「私は死に損ないではない。一生懸命生きてきた。大変悲しい」と同中学に手紙で抗議。校長が電話で謝罪するという事件も記憶に新しいところである。

なぜ、このような心が痛む事件が頻繁に発生するのだろうか。

社会の疲弊や閉塞感がこうした痛ましい事件を引き起こしていると言うだけでは、説明不足だ。格差社会が深刻化するなど、ほんの一部の富を得るものと圧倒的多数の貧困層の存在が、社会をますます低迷させ、失業者は増え続け、その結果、大学を出ても就職できない若者が街中にあふれ返るまでになってしまっている。街からは、「活気」が無くなり、卑劣な事件が繰り返し報道されるという昨今である。
しかも,そんな暗い時代の風潮の中で,あの東日本大震災が起こってしまった。その復旧や復興も飛躍的に進んでいるという状況ではなく、福島原発問題への対応も含め、ますますそんな閉塞感は決定的なものとなってしまったように、多くの市民の認識として広がっているようである。
また、人を殺めてしまった容疑者に対して、その動機を尋ねると、「殺すには誰でも良かった」と平然と言ってのける殺人事件が最近頻繁に発生している。弱いものなら誰でもいい。弱いものが、さらに弱いものをたたく社会。ヘイトスピーチや、ホームレスに対して危害を加える事件の発生なども、こうした時代背景が影響していることは言うまでもない。

このような社会の疲弊を、資本主義社会の限界と矛盾であると指摘する学者や評論家が現れ始めている。株や債券、不動産などへの投資によって得られる利益の成長率が、平均5%に対して、経済成長率が平均2%では、資本を多く持つ富裕層にますます多くの富が集中する反面、労働賃金だけで暮らしている普通の人々の富は増えることはなく、格差と不平等はどんどん広がっていくものであり、今後もさらに広がることは自明の理であるということ。

さらには、この格差は、裕福な親から子への資産の世襲相続によってさらに拡大するという世襲資本主義を継承することとなり、個々人がどのような知識を身に着け、どのような職業に就くかで将来が決定するという人生観ではなく、誰の子どもに生まれるか、誰と結婚するかが所得を決定するという世襲資本主義社会ともいうべき時代が到来している指摘されている。

法律家をめざす若者のなかですら、弁護士になるよりも銀行家の娘と結婚するほうがはるかに裕福になる早道だと本気で語り合っている学生達がいるそうである。

中間的な所得階層は分解し、カネがカネを生む世界で楽々と暮らす、ごくわずかな人たちと、貧困が貧困を呼ぶ大多数の人たちとの間に、従来にないほどの社会的緊張が激しくなると警告している学者も存在している。その一例が、上記で指摘した数々の事件なのかも知れない。

夢をもてる社会。明日への希望を託すことができる社会に、少しでも貢献したいものだ。