大阪芸大差別事件にみる「不作為」の差別性

水平時評 府連書記長 赤井隆史

故つかこうへいさんの代表作に「蒲田行進曲」があることをほとんどの方はご存じだろう。しかし、この「蒲田行進曲」に続編があることをご存じだろうか。

それは「蒲田行進曲 完結編 銀ちゃんが逝く」という舞台の脚本、戯曲として世に発表されている。
このストーリーに差別表現があるとして、わたしたちが問題提起をした。ある大学の演劇サークルが、「蒲田行進曲 完結編 銀ちゃんが逝く」を演じることとなり、それを宣伝するためのチラシに「小夏は銀ちゃんの娘ルリ子を出産後、〜中略〜 実は銀四郎は被差別部落の出身で、ルリ子の難病はその体に流れる銀四郎の血筋によって発病したものだったのだ」という説明文があり、大学校内の掲示板に貼られているのを学生が見つけ、大学側に問題提起したことから事件が明るみに出た。

この「蒲田行進曲 完結編 銀ちゃんが逝く」の脚本そのものが問題であるという点については、つかこうへい事務所との話し合いが進められている最中であることから、今回のコラムでは触れないことにするが、この差別表現が含まれているポスターの掲示にあたり、大学側がポスター掲示を承諾し、掲示板への張りだしを認めたことの差別性について、取り上げたい。

大学側は当初、「つかさんの作品であり、問題ないとノーチェックでOKした。(掲示板への貼りだしを)」「ポスターを作成したのは学生であり、大学側の責任はきわめて低いのではないか?」と自らの責任はきわめて低いとの態度をとり続け、そのなかでわたしたちとの話し合いが進められた。
故つかこうへいさんの「つかこうへい」という名前は、不公平な社会に対して、“いつかこうへいに”との思いが込められた名前であるというエピソードがある。大学側のポスター掲示を認めた職員さんの中にも、“つか作品なら大丈夫”という決めつけが当初からあったようである。

今回、ノーチェックで差別表現ポスターの掲示を許可した大学側の責任という問題を、わたしは、“不作為の差別性”として指摘しておきたいのである。

昨今、企業や行政の不祥事や事件・事故が発生すると、組織のトップを中心に不作為責任が問われる。つまり、「その事件・事故がおこることが予見できたのか」ということが争点となり、現役責任者はもとより、歴代幹部にまでさかのぼって罪が問われるという時代だということである。もし予見が可能だったと判断された場合は、事故それ自体の罪と同じくらい、いやそれ以上に何もしなかったという“不作為が指弾”されるのである。

学生が提出してきたポスターを見ることもなく、つかこうへい作品なら大丈夫と決めつけ、それも複数の人数でのチェックではなく、担当者ひとりによる判断で、“見もしない。何もしない。”という不作為が責任として問われたのが、この事件である。

強い差別意識と差別的な体質が大学側にあったということではない。しかし、人権や差別問題への傍観者としての態度が、大学側に存在し、不作為の差別として今回、指弾されたのである。大学側は、こうした事実を謙虚に受けとめ、大学内では、「差別や人権侵害につながる発言や、落書きなど起こる可能性があるもの」ということを予見し、常に起こったときの初期対応、チェック体制などを充分に確立させておくべきだったのではないだろうか。

同和教育や人権教育に取り組むという熱意が、一時よりも熱が冷め、形骸化していたことを大学側も認めている。学内で起こった幾つかの差別事件によって、同和教育基本方針が策定され、現在もこの精神は引き継がれているというが、内実は、“あってないようなもの”になっていたことは想像に難くない。当初の意義や内容が失われ、忘れられ、形ばかりのものになっていることを物語っている。

“不作為の差別性”について、どれほどの責任として大学側が受け止めるのか、その態度に注目したい。