今年最後の「水平時評」となった。最後の最後に朗報が聞けた。12月17日さ
コラム | 2025年12月25日
コラム | 2025年12月25日
今年最後の「水平時評」となった。最後の最後に朗報が聞けた。12月17日さいたま地裁において、「部落探訪」に掲載された28カ所すべての記事の削除が命じられたからだ。
もともと訴えていた支部長1名の被差別部落だけが削除の対象になるのではないかとの心配があったが、裁判所は、見事埼玉県内で部落探訪にとりあげられたすべての地域の動画の削除を命じるという画期的な判決が下された。
この判決に続いて新潟、さらには地元大阪でもこの判決を歓迎し、つぎに続ける闘いを来年は本格的にとりくんでいく年となるだろう。
しかし、ひとりの原告(解放同盟埼玉県連も原告ではあるが・・・)の訴えで、なぜ埼玉県内28地区の動画が削除対象となったのか、判決はこう綴っている。
「インターネットには、情報の高度の流動性、拡散性、永続性のほか、投稿やアクセスの容易性といった特性が認められる。こうしたインターネットの特性に鑑みれば、本件各記事の1つの記事を閲覧することを出発点として関連記事を検索することは可能かつ容易である。いずれか1つの記事を閲覧すると考える者は、被差別部落に関心を有する者であると考えるところ、本件記事一覧に掲載された他の記事をも探索することが否定できない。〜(中略)〜 現地を訪ね歩く形を採りつつ、閲覧者の興味を引くことを意図したとみられる感想や意見を記載する等しており、インターネット上の関連付けの影響も相まって、閲覧者が芋づる式に本件各記事を閲覧する誘因も大きいといえる。」と結論づけている。
ひとつは、インターネットの特性を重視した判決であり、ひとつの記事を閲覧することだけで、ネットサーフィンは完了するものではなく、関連する記事をクリックすることは当然考えられる行為であり、それを判決は、“芋づる式”という表現を使い、その他の記事を閲覧する可能性は極めて高いと結論づけているのである。
もうひとつは、“被差別部落への関心”というキーワードである。
「埼玉県には多数の部落がある。映画を機会に埼玉の部落を観光するのもよいだろう」とする解説文が書き込まれており、ひとつの被差別部落だけを差別の対象にしたものではなく、埼玉すべての動画で晒された部落そのものの“平穏な生活が脅かされる”可能性が高いと判決は指弾した。
つまりは、被差別部落を垣間見れるという興味本位の欲望は、ひとつの動画だけで事足りるという性質のものではなく、それこそ判決が指摘した“芋づる式”についつい閲覧してしまうという可能性の高い間違った部落問題への関心を導き出すことにつながる差別行為だと指弾したことを意味する判決だと認識したい。
一カ所の被差別部落の動画だけを閲覧したユーザーが、それで興味が満たされたと満足するという類いのものではなく、しかもその“芋づる式”は、埼玉県内だけにとどまるものでもないことも読者の皆さんは気づいているだろう。当然、自分に関連する本籍を置いている府県や通学した大学、就職先、好きになった異性の故郷など、興味ある府県に存在する被差別部落の動画を、ネットサーフィンしまくり、「ここはこういう部落だったのか」とあらためて閲覧することで、「高校の時のあいつは、実はあの被差別部落に住んでいたのか」とか、「なかなか家に遊びに行けなかったのは、住所が被差別部落だったからなのか」と“変な関心”を引くことにつながったのかもしれない。
ひとりの原告の勇気ある訴えにより、埼玉県内で晒され続けた“部落探訪”は、動画28カ所すべて削除という判決となった。ひとりの原告で埼玉県という範囲に限定された判決ではあるが、削除が言い渡された。しかし、部落差別は、埼玉県だに存在するものではなく、当然、日本社会の長い歴史の中で形成された身分階層構造に基づく差別である。わが国固有の人権問題であると判決も綴っている。訴えた原告が、埼玉県内に居住する者で、もう一つの原告も部落解放同盟埼玉県連である。だから判決は、埼玉県内にとどめた判決となった。
当たり前といえば当たり前だが、わたしたちが求めたのは、「部落差別」かどうかが、判決の肝であることはいうまでもない。「原告の不当な差別を受けることなく平穏な生活を送ることができる人格的な利益が侵害された」と、権利侵害という差別されない権利は認められた。やはり部落という属性が不当に侵害されることを許さない法律の制定が急務である。
2026年の闘いがいよいよスタートしようとしている。今年1年お疲れさまでした。