法律の世界では、「差別」という解釈が、現在の社会に存在する「差別」とは少
コラム | 2025年12月8日
コラム | 2025年12月8日
法律の世界では、「差別」という解釈が、現在の社会に存在する「差別」とは少し意味が異なっているということを、この間の鳥取ループ・示現舎との裁判闘争の課程で認識させられるようになってきた。
法律上の「差別」は、「(不合理な)別異取り扱い」のことを指しており、差別する者から被差別側への攻撃という意味は含まれていないという法律の解釈である。
法律の世界で説明されている「別異(べつい)」とは、物事の間に「違いがあること」「異なっていること」、またはその違いを「区別すること」を意味する言葉で、特定の人や集団に対して、他の人と異なる取扱いのことを指している。
つまりは、アメリカ社会における黒人優遇だといわれていた“アファーマティブアクション”や女性の社会進出を促すための“ポジティブ・アクション”などが、「別異取り扱い」にあたるということになる。
1969年から実施された“同和対策特別措置の法律”も「別異取り扱い」ということとなる。
法律の世界での“差別”という理解は、部落差別を受けている被差別部落大衆は、一般の人々に比べ、生活水準や教育水準が低いため、それはまさに「平等」ではなく、それを「同一の扱い」とするためには、「等しいものは等しく、等しくないものは等しくなく」扱うという相対的平等の考え方がそこには存在し、この「等しくないもの」を「等しくない」ように扱う“別異取扱い”が、特別措置法にあたるという法的な理解が根底に存在している。
つまり、「同じように扱う」ことがかえって不平等を生む場合に、あえて「異なる扱い」をすることで、真の平等な状態(結果の平等)に近づけるための仕組みが「別異取扱い」という法律の世界での「差別」の解釈である。
この高いハードルを越えて裁判上における「差別されない権利」を認めさせることは容易ではないことはわかってもらえると思う。「差別」を受けた者が味わう“嫌悪感や喪失感”、その過程で生じる“排除や攻撃”、こうした「攻撃」により、差別される者の「尊厳」は傷つけられ、「平穏な生活を送ることができる人格的な利益」に支障がきたすという権利侵害を認めさせることができるかどうかが、この鳥取ループ・示現舎との裁判闘争最大の課題であったことはいうまでもない。
「不合理な別異取り扱いを禁止したもの」という法解釈に留まるという判決結果の枠を超え、「嫌悪感や偏見」にもとづき「排除や攻撃」をされないという権利の保障にまで踏み込むという裁判結果を勝ち取ることがこの裁判の試金石であったと言えよう。
憲法14条は、「すべて国民は、法の下の平等であって、人種、信条、性別、社会的身分、または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」と規定しているが、従来の考え方からすれば、結果の平等を作りあげるために被差別部落や部落出身者に対する特別措置という優遇策で、結果の平等を担保したり、障害者への合理的配慮によって、「(不合理な)別異取り扱い」による異なる扱いで、一般の人々との経済的格差や社会的関係を平等に保とうという“扱い”という狭小な意味でしか「差別」が解釈されて来なかった歴史をわたしたちは経験してきたのだ。
わたしたちが求めたのは、一般の人々との格差を埋めることに主眼があるわけではない。わたしたちが求めたのは、部落出身を名乗っても被差別部落に居住していてもなんらの差別を受けない関係が築き上げられるのかどうかが、わたしたちの求めた社会であり、人間解放の精神である。被差別部落の出身であることで侮辱を受けたり、蔑まされたり、人間としての尊厳を傷つけられる行為を裁判の中で、明らかに出来るかどうかが、最大のポイントであったはずである。
そこで東京高裁判決は、憲法13条を持ち出して、個人の尊重に反し、幸福追求権を侵害するものであるから、本判決は、「『差別されない権利』を認め、人は誰しも、不当な差別を受けることなく、人間としての尊厳を保ちつつ平穏な生活を送ることができる人格的な利益を有する」とまで踏み込んだ画期的な判決が出されたのである。
マジョリティといわれる一般のひとたちに近づくことが差別からの解放ではない。経済的な格差や社会的関係という格差を埋めるための是正策を否定するものではない。しかし、施しの施策や特別対策による別異の取り扱いだけに甘んじる訳にはいかない。肝心要の“部落差別からの解放”という当事者の声が、法律の世界の「差別」という解釈のバージョンアップを求めるものである。