「自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力。あるいは誤解
コラム | 2025年8月12日
コラム | 2025年8月12日
「自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力。あるいは誤解や錯誤により抑止は破られてきました」−8月6日に発表された広島県知事の平和へのアピールである。感動された方も多いのではないだろうか。
「自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ」というフレーズで、真っ先に顔が浮かんだのは、当然アメリカ大統領のトランプ氏だろう。その後に続く「あるいは誤解や錯誤により抑止は破られてきました」との文章では、N国の立花氏や参政党の神谷氏が浮かんだ方が多いのではないだろうか。
アメリカと日本と遠くて離れているにもかかわらず、昨今の世の中の現象はつながり、共通点としてあげられるのは、“人類の危機”というテーマに帰結しているように思えるのはわたしだけだろうか。
とくにアメリカは、トランプ大統領の登場により、アメリカさえ良ければよいと「アメリカ・ファースト(米国第一)」を掲げ、貿易赤字を押し付けられてきたと不満を述べては、世界を相手に高関税を課して自国産業だけを守ろうとする。アメリカ自身こそがこれまで繁栄をもたらしてきた自由貿易を否定するというのだ。さらに驚くことに気候変動や感染症など地球規模の課題にとりくむ国連機関や国際組織からも離脱し、けん引してきた対外援助からも手を引く。協調主義に背を向ける行為の数々である。
同盟国にさえ強圧的な行動をとり、対立を深め、ヨーロッパでは「脱アメリカ」の動きが強まり、日本を含むアジアの同盟国はさらなる負担増に警戒を擁するという事態である。
まさに民主主義の“破壊者”ともいうべきトランプ氏を産んでしまったのも、皮肉なことに民主主義の手続きともいうべき選挙で選ばれているというのが事実である。また、この7月の参議院選挙による参政党躍進も選挙で選ばれた民意であり、“一番安くつくのが核武装”といった発言や、“治安維持法ってイイよね”との間違った国家観など、歴史から何も学ぶことなく、選挙さえ勝利すれば多少のフェイクやデマはご愛嬌というのか。
どぶ板選挙や辻説法といった有権者へ候補者の政策を届けていた従来の手法が、大きく違ってきており、コミュニケーションによる理解を得る方法が、SNSへ変容したことにより、選挙への参画の仕方や選ぶという意思の決定に大きな違いを生じさせている。それをうまく取り入れることが出来なかったのが、従来からの既成政党と言うことになる。
しかも時間を切り詰めるタイパが重視され、「自分が価値を感じるコトに、時間を割きたいから」と新聞を読まない、テレビも見ない。「世の中のあらゆるコトを効率化したい」と費やした時間に対する満足度だけが、自分の価値基準となり、「電車に乗るのに迷惑な大きなスーツケースを引きずる外国人」の存在や「何か特権が与えられているように見える外国人」のひとたちなどを連想させるフェイク、デマ動画がYouTubeやTikTok から流され続けることによって、“日本人ファースト”を受け入れるという人気投票に選挙が変貌してしまったという結果なのか。
はじめに紹介した8・6広島県知事のメッセージでは、核抑止という考え方への限界を指摘し、世界の国々による核をとによる均衡ではなく、新たな安全保障のあり方を構築するために頭脳と資源を集中するとのメッセージが提案されたのである。そうした考え方を人権の分野でも貫くためには、決して自分ファーストになることなく、相手の意見にも耳を傾け、時には自分を放れた位置に置き、俯瞰して見てみることの必要性が今ほど問われることはないだろう。
対話を重視し、言いっぱなし聞きっぱなしではない“反SNS”という新たなコミュニケーションツールの開発が急がれると言えるだろう。一方通行に陥らないフェイクでもデマでもない耳に心地よいキャッチコピーというワンフレーズでもない。しかし若者を惹きつけるしっかりとした政治政策論の確立が求められていることは言うまでもない。
このSNS時代は、分断と対立を煽ることとなっているが、果たして「包摂」というテーマは、SNS時代に成り立つ可能性を秘めているのであろうか。部落解放運動が求めたにんげん解放という思想は、まさに包摂であり、誰ひとり取り残さない社会の実現にある。核抑止という均衡社会ではなく、核廃絶という社会へ転換させるためには多くの人たちの英知の結集が必要なことは言うまでもない。まさに現代のSNS社会を変革させるSNS教育に特化したリテラシー教育が急務である。